宮川町通、団栗図子

    上地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックするとマーカーポイントの吹き出しが表示されます。

    図子(辻子)と路地」トップページへ

    宮川町通
    [宮川町(みやがわちょう)は京都市東山区に位置しており、宮川筋二丁目から六丁目までが花街である。出雲阿国歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。明治大正昭和33年(1958年)3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。現在は芸妓一筋の花街で、毎年春には『京おどり』が上演される。舞妓数は祇園甲部に続いて20人以上の大きい数を誇っている。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、それ以降30年ほど前までは楳茂都流であったが現在は若柳流が主流である。
    1999年(平成11年)、宮川筋3丁目から6丁目の一部、西御門町にかけて祇園町南歴史的景観保全修景地区に指定された。
    2003年(平成15年)、宮川町芸妓ふく葉(同芸妓組合会長)、君直、ちづるの三名が宮川町初の若柳流名取となった(一方富美蝶を代表とする楳茂都流の名取芸妓も健在である)。
    2006年(平成18年)、 歌舞練場改築工事で休演されていた芸妓の発表会である『みずゑ会』が31年ぶりに復活した。  (wikipedia・宮川町より)]

    宮川町 – Google Map 画像リンク

    カメラ位置は宮川町東西通/宮川町通T字交差点です。(宮川町東西通の川端通と大和大路間は、かって団栗図子(どんぐりずし)と言われた。)

    カメラ位置は宮川町通/宮川町東西通で、カメラ南方向が宮川筋4丁目方向です。

    カメラ位置は宮川筋4丁目北側のT字路です。

    カメラ位置は宮川筋4丁目南側のT字路です。

    カメラ位置は宮川町通西御門町です。

    天明の大火
    [天明の大火(てんめいの たいか)とは、天明8年1月30日(1788年3月7日)に京都で発生した火災。出火場所の名をとって団栗焼け(どんぐりやけ)、また干支から申年の大火(さるどしの たいか)とも呼ばれた。
    京都で発生した史上最大規模の火災で、京都御所二条城京都所司代などの要所を軒並み焼失したほか、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰した。被害は京都を焼け野原にした応仁の乱の戦火による焼亡をさらに上回るものとなり、その後の京都の経済にも深刻な打撃を与えた。このため、単に京都大火(きょうとたいか)あるいは都焼け(みやこやけ)と言うと、通常はこの天明大火(てんめいたいか)のことを指す。なお、宝永元治(どんどん焼け禁門の変に伴うもの)と並んで「(近世)京都の三大大火」とも言われている。
    正月晦日(1月30日)の未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の町家から出火。空き家への放火だったという。折からの強風に煽られて瞬く間に南は五条通にまで達し、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に延焼した。その日の夕方には二条城本丸が炎上し、続いて洛中北部の御所にも燃え移った。最終的な鎮火は発生から2日後の2月2日早朝のことだった。
    この火災で東は河原町木屋町大和大路まで、北は上御霊神社鞍馬口通・今宮御旅所まで、西は智恵光院通大宮通千本通まで、南は東本願寺西本願寺六条通まで達し、御所・二条城のみならず、仙洞御所京都所司代屋敷・東西両奉行所摂関家の邸宅も焼失した。  (wikipedia・天明の大火より)]

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

    *