新熊野神社

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    新熊野神社
    [平安時代後期、熊野詣盛んな頃、後白河上皇平清盛に命じ、熊野の神をここに勧請するため、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現した熊野の新宮。創建は1160(永暦元年)境内の大は当時熊野より移植した後白河上皇お手植といわれている。又当社は、日本能楽史上紀元元年といわれる1374(応安7年)観阿弥世阿弥父子が室町幕府三代将軍足利義満の面前で「猿楽」を演能した地としても著名。現本殿は1673(寛文13年)聖護院道寛親王が再建した市指定重要文化財。5月5日「新熊野祭」鳳輦巡行。9月15日(仲秋の名月)「大樟祭」。11月23日お火焚祭。12月23日「つなかけ祭り」。1月10日(成人の日)「左義長祭」、6月30日「茅の輪くぐり」。なお、大樟祭・左義長祭は年によって実施日が変わります。  (「京都観光Navi:新熊野神社」より)]

    [新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、京都市東山区今熊野椥ノ森町にある神社。永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社。伊弉諾尊(いざなきのみこと、伊邪那岐命とも表記)を主祭神とする。熊野神社熊野若王子神社を併せて「京都三熊野」と呼ばれている。
    後白河天皇は1155年に即位し、1158年に退位したが、退位後も現在三十三間堂の東側にある法住寺にて院政を敷き、その場所は「法住寺殿」と呼ばれる。その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建される。造営に当たったのは、法皇の命を受けた平清盛重盛父子である。
    神社本庁との関連
    新熊野神社は神社本庁傘下ではない独立神社である。
    神社本庁やその傘下の神社において、改憲推進団体「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などが改憲賛成の署名運動が行っていることについて、宮司の尾竹慶久は「我々の職務は、参拝者に気持ちよくお参りをしていただく環境を整えることに尽きます。不快感を抱く人もいる改憲運動を持ち込むのは、神職の職務放棄、神社の私物化です」と批判している。
    入口 石鳥居・wikipedia-photo、本殿・wikipedia-photo、樟龍弁財天・wikipedia-photo、八咫烏 提灯・wikipedia-photo、京の熊野古道・wikipedia-photo  (wikipedia・新熊野神社より)]

    新熊野神社ホームページ

    「新熊野神社と大樟(クスノキ)と能楽機縁の地 ( 京都府 ) – 京都」

    新熊野神社資料リンク
    花洛名勝図会」・東山之部 八 新熊野神社東山之部 八 新熊野神社解説
    新熊野神社(拡大図)

    [新熊野社
    通り雨かからぬ森やせみの声・梅室]

    年中行事大成. 巻之1-4 / 速水春暁斎 画図」・「爆竹之図(左義長神事・1月15日)」(1-36)

    夏越祓之図」(6-35)

    [大祓は民間では、毎年の犯した罪や穢れを除き去るための除災行事として定着した。民間の場合、6月のものは「夏越の祓」(なごしのはらえ)、12月のものは「年越の祓」(としこしのはらえ)と呼び分けられる。夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内にで編んだ直径数 m ほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うという儀式である。かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたりしたとされる。これは、『釈日本紀逸文の『備後国風土記』に記されている疫隈国、素盞嗚神社蘇民将来伝説に由来するもので、武塔神の指示により茅の輪を腰につけたところ災厄から免れ、武塔神は自らを速須佐雄と名乗り去っていったと書かれている。  (wikipedia・大祓より)]

    カメラ西北西方向が新熊野神社参道で、カメラ西南西方向が後白河上皇お手植といわれている大樟です。

    カメラ東南東方向が後白河上皇お手植といわれている大樟です。

    カメラ北東方向が京の熊野古道入口で、カメラ東方向が本殿、カメラ北北西方向左が上之社、右が中之社です。

    カメラ北西方向が京の熊野古道出口で、カメラ西方向が本殿、カメラ北方向左が若宮社、右が下之社です。