マーカーは最勝光院跡調査地です。
最勝光院跡
[今年(2012年)3月に、平安時代後期、後白河法皇(1127-1192)の后で平清盛(1118-1181)の義理の妹、建春門院(平滋子、1142-1176)が造営し居住した最勝光院跡を掘り下げると、奈良時代の建物跡3棟分と、古墳初期(3世紀ごろ)の竪穴住居跡10棟分が見つかった。
調査地は元、一橋小学校の跡地で東山泉小・中の校舎新築に伴い、京都市埋蔵文化財研究所が1月から約1500㎡を調査していた。
[参考:京都新聞] (「京都市・最勝光院跡/法住寺殿跡 古墳時代と奈良時代の建物跡が出土 …」より)]
[京都市東山区にあった後白河法皇の御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一郭に建てられた御願寺(ごがんじ)。女御(にょうご)建春門院(けんしゅんもんいん)(平滋子)の発願により、後白河法皇が女院の兄の平時忠(ときただ)を責任者として造営させた。1172年(承安2)2月に上棟、翌年10月に盛大な落慶供養が行われた。宇治平等院の鳳凰堂(ほうおうどう)形式の壮麗な寺院であったとみられる。同院が建立されると、翌1174年に源雅通(まさみち)・藤原成親(なりちか)が荘園を施入するのをはじめ、院近臣を中心に荘園所領の寄進が相次ぎ、法皇がこれを管領した。1226年(嘉禄2)6月4日放火によって焼亡し、寺運は衰微に向った。同院領は、法皇の没後、後鳥羽(ごとば)上皇、後堀河(ごほりかわ)上皇、後嵯峨(ごさが)上皇、亀山上皇、後宇多(ごうだ)上皇を経て、後醍醐へと伝領されるが、その間に荘園支配は次第に動揺していった。後醍醐天皇は、1326年(嘉暦1)3月、最勝光院と20か所にのぼる同院領を東寺に寄進し、建春門院とその子高倉天皇の忌日(きにち)に東寺御影堂(みえいどう)で仏事を勤修(ごんしゅ)させることとし、かろうじてその法灯を維持した。[田中文英]
『杉山信三著『院家建築の研究』(1981・吉川弘文館) ▽朧谷寿著『平安貴族と邸第』(2000・吉川弘文館)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ) (「最勝光院(さいしょうこういん)とは – コトバンク」より)]
カメラ北東方向が最勝光院跡調査地であった東山泉小・中の校舎です。