祇園東

マーカーは祇園東お茶屋組合・祇園東芸妓組合です。

祇園東
[祇園東(ぎおんひがし)は京都市東山区花見小路通四条上ル東側に位置する花街。
江戸初期に八坂神社の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりである。後に行政からも花街として公認されることになったが、この際に団子をモチーフにした紋章が作られた。この紋章は 現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたといい、文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。
明治14年(1881年)に入り、祇園甲部から分離独立した。一時は『祇園乙部』と称されたが、戦後は名称を『祇園東』に改め現在に至る。 祇園東の一帯はかつて膳所藩屋敷が存在していたことから地元では『膳所裏』と呼ばれていた。 近年の芸妓数減少で後継者難に極めている。 毎年、秋になると「祇園をどり」が開催される。舞踊の流派は篠塚流井上流を経て現在は藤間流。  (wikipedia・祇園東より)]

[八坂神社のお膝元である祇園界隈は、12世紀にはすでに京の中心地として栄えていましたが、応仁の乱によってすべてが燃え尽くされてしまいました。江戸時代に入って、八坂神社や清水寺に参拝する人々でふたたび賑わいを取り戻し、行きかう人々が一服する水茶屋が軒を連ねるようになりました。そういった茶店で働く給仕のなかでも、踊りや唄・三味線などでもてなす芸達者な茶汲み女たちが人気となり、次第に専門化していったのが祇園の芸妓や舞妓の始まりだと言われています。そして、水茶屋は単なる茶店ではなくお座敷で遊興できる「お茶屋」として、17世紀の中頃には徳川幕府に公認され、1732年には茶屋株をもつ特別な商形態を許されました。専属の芸・舞妓を育成してお茶屋に送り出すやかたは「置屋」と呼ばれました。
1881年に、第三代の京都府知事(北垣国道)の命で祇園は甲部と乙部の二つに分けられ、1870年に取り払われた滋賀県膳所藩の広大な屋敷近辺とその屋敷跡地一帯のお茶屋が乙部と指定されました。
祇園乙部は1949年に祇園東新地と名を改め、1955年頃から祇園東と称されて今日に至っています。東大路花見小路の間で四条通北側の通り三本(東富永町・中末吉町・新橋)にまたがる地域で、最近は飲食店やスナックのビルが建ち並ぶ谷間で12軒のお茶屋が営業を続けています。  (「 京の五花街 – 祇園東」より)]

カメラ北方向路地右に祇園東お茶屋組合・祇園東芸妓組合があります。

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