良正院

マーカーは良正院です。

良正院
[良正院は池田輝政に嫁した、徳川家康の二女督姫菩提寺である。この寺は、二条城三の丸を移築したと噂されるように、浄土宗塔頭にしては異例で、武家屋敷のような門に、本堂の間取りもどちらかといえば禅宗寺院のような形式になっている。そして部屋には、狩野派の絵師たちによるものと思われる障壁画があり、竹林、松、鉄線や朝顔、牡丹といった様々な植物が描かれている。
敷地内には現在、知的障害者施設の大照学園が設けられていて、児童部や更生部、授産部などが設置されており、悩める人々を救うという仏教が本来あるべき姿を示している。また境内では、照道窯々元として、その大照学園の利用者たちが創作した陶芸品などを販売している。  (「良正院 | 祇園商店街振興組合」より)]

[重要文化財建造物
良正院〔京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町〕
●本堂
●表門 – 一間薬医門  (wikipedia・京都府にある建造物の重要文化財一覧より)]

カメラ北方向が良正院表門です。

督姫
[督姫[とくひめ、永禄8年11月11日(1565年12月3日)- 慶長20年2月4日(1615年3月3日)]は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。母は家康最初の側室西郡局(鵜殿長持の娘)。別名は於普宇、富子、播磨御前、良正院。
三河国の生まれ。松平信康結城秀康徳川秀忠松平忠吉松平忠輝らは異母兄弟、亀姫振姫は異母姉妹にあたる。
天正10年(1582年)、本能寺の変により父の同盟者だった織田信長が死去して甲斐国信濃国が無主状態となると、父と北条氏直による甲信地方を巡っての領土争いが始まる(天正壬午の乱)。当時の徳川氏北条氏を比較すると、国力面や動員兵数においては北条氏が上回っていたが、黒駒の戦い、信濃豪族の取り込みでは徳川氏が有利という状況であった。このまま戦えば手痛い打撃を受けると考えた両者は、旧織田領の甲斐信濃を徳川氏が、上野を北条氏が治めることを互いに認めて和睦した。この時の和睦条件の一つとして、督姫が19歳で氏直の正室として嫁いだ。督姫は氏直のもとで二女を生む。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐戦国大名としての北条氏は滅亡する。この時、氏直は義父の家康の助命嘆願で秀吉から助命されて高野山に流された。後に赦免された氏直の下に赴くも、翌天正19年(1591年)に氏直が死去したため、父の下へ戻った。なお、氏直との間の2人の女子は、一人が文禄2年(1593年)に没し摩尼珠院殿妙勝童女と号され、もう一人は池田利隆室となるが慶長7年(1602年)に没し、宝珠院殿華庵宗春大禅定尼と諡号された。
文禄3年(1594年)、秀吉の計らい(仲人)で池田輝政に再嫁した。この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、現在はサントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財東京国立博物館所蔵)を持参している。輝政との夫婦仲は良く、池田忠継池田忠雄池田輝澄池田政綱池田輝興振姫など5男2女をもうけた。輝政の死後、姫路城で死去した。享年51。
法名は良正院殿隆譽智光慶安大禅定尼。墓所は知恩院塔頭・良正院(京都市東山区)。墓は知恩院山腹の墓地内にある。東京国立博物館には法体後の姿を描いた「良正院像」が所蔵されている。
元和2年(1616年)、輝政の長男・池田利隆は継母の督姫の後を追うように死去した。利隆の遺児・池田光政岡山藩主となり、後に本多忠刻千姫(秀忠の娘で督姫の姪にあたる)の長女・勝姫を正室に迎えた。  (wikipedia・督姫より)]

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