長寿庵左阿弥

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長寿庵左阿弥関連リンク – 「円山安養寺

長寿庵左阿弥
[安養寺が時宗に改宗後は住持は代々「阿弥」号を名乗り、也阿弥、正阿弥など六つの塔頭すべてに「阿弥」が付いていた。勝興庵正阿弥,長寿庵左阿弥,花洛庵重阿弥,多福庵也阿弥,延寿庵連阿弥,多蔵庵源阿弥の6つがあり、「六阿弥」「円山の六坊」などと呼ばれた。江戸時代には、六阿弥それぞれが民衆へ席を貸す「貸座敷」を営み、その卓越した眺望と林泉美を背景に詩歌連俳、歌舞遊宴の名所地として知られた。明治に入ると也阿弥、連阿弥、重阿弥が合併して「也阿弥ホテル」として宿と料理屋を営み、とくに外国人用宿として海外でも評判をとった。これら塔頭も明治維新後の境内の官収や火災で姿を消したが、現在円山公園内にある料亭「左阿弥」はかつての六塔頭のうち唯一残存したもの。弁天堂前にあった六坊の一つ重阿弥は赤穂浪士が円山会議を開いたところである。  (wikipedia・安養寺_(京都市東山区)より)]

[東山の庵に左阿彌が誕生したのは、元和元年のこと、織田信長の甥である織田頼長により、安養寺の末寺として建てられました。
頼長の父は、茶人の織田有楽斎。頼長も又、雲生寺道八と号し、この地で茶事を極めたと云います。江戸時代、安養寺のある東山あたりは、遊興の地として大変なにぎわいでした。中でも左阿彌は、安養寺「円山の六坊」の一つと数えられ、文人墨客の集うところとなり風流の限りが尽くされたと伝えられています。
左阿彌が料亭を始めたのは嘉永二年。明治維新以降、御前会議にも使われました。有栖川総督宮山県有朋参与が止宿され、頼山陽先生や土田麦僊画伯によってこよなく愛されました。さらに、川端康成志賀直哉の文豪をお迎えし、作品『暗夜行路』・『古都』にも左阿彌がでてまいります。京都を描いた名作の作家らも、ここで京都の風情を楽しみました。  (「京都・円山公園 | 料亭 左阿彌 | KYOTO MARUYAMA PARK ..」より)]

都林泉名勝図会」・巻之二 多蔵庵春阿弥巻之二 延寿庵連阿弥・一枚目巻之二 連阿弥 (延寿庵連阿弥・二枚目)巻之二 端之寮・一名目巻之二 端之寮・二名目巻之二 多福菴也阿弥・一枚目巻之二 多福菴也阿弥・二枚目巻之二 多福菴也阿弥・三枚目巻之二 長寿院左阿弥巻之二 勝興庵正阿弥・一枚目巻之二 勝興庵正阿弥・二枚目

左阿彌 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が長寿庵左阿弥です。

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