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金蔵寺
[金蔵寺は、小塩山の東南斜面の中腹にあり、斜面に沿って堂宇が建ち並んでいる。資料では、奈良時代初期の養老2年(718)、元正天皇の勅命により隆豊(りゅうほう)禅師により創建したとされる。その後、神亀5年(728)には聖武天皇から「金蔵寺」の勅額を賜り、さらに翌年には天皇が各地の霊山に「華厳・普門品」など経典を書写して埋めたときの一つの山に選ばれている。開山堂の東100mほどの所、下の川弁財天を祀った祠の背後に聖武天皇経塚碑がある。また、桓武天皇は平安京造営の際に、平安(王城鎮護)を祈願して都の四方の岩倉(岩座・磐座)に経文を納めたが、この金蔵寺が西の岩倉となった。山号西岩倉山はこれに因むという。当初の金蔵寺は、法相宗と三論宗の寺であったが衰微した。天台座主良源の弟子が中興され天台宗に改まり、境内には堂塔、伽藍は四十九院を擁する大寺院となったが、戦火などにより再建を幾度となく繰り返す歴史を辿って荒廃。江戸時代前期の貞享(じょうきょう)4年(1687)から宝永2年(1705)の間、徳川幕府五代将軍徳川綱吉の母、桂昌院によって再建されたのが現在の伽藍という。 (「金蔵寺」より)]
[山号を西岩倉山と号し、天台宗に属する。寺伝によれば、養老2年(718)、元正天皇の勅によって、隆豊(りゅうほう)禅師が開創し、聖武天皇を勅額を賜り経典を書写して埋めたといわれ、桓武天皇は平安京遷都にあたり、王城鎮護のため経典を埋め西岩倉山を号するに至ったと伝えられる。また、隆豊禅師の開創に当たり向日町にある向日明神の神助があり、明神の手引きで楠木で千手観音を刻んだことが「金蔵寺略縁起」に見えている。平安時代以後、当寺は西山の名刹として栄えたが、応仁の乱と続く戦乱によって当寺の建物はすべて焼失し、当寺の正確な歴史を伝える古文書、記録も失われた。
偏在の建物は、元禄4年(1691)将軍綱吉の母、桂昌院によって再建されたもので、本堂には十一面千手観音像を安置する。本堂背後には、明治初年に愛宕山より本尊、勝軍地蔵像を移して祀っている。このほか、山内には当寺の伝承にまつわる遺跡が多く、本堂の北、長嘯亭からは京都市内が一望の下に見下される。 京都市 (「大原野 金蔵寺 秋紅葉 11/30/2010 – 京の四季 名勝散策 写真集」-「画像」より)]
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金蔵寺資料リンク
「都名所図会」・「巻之四 右白虎再刻 西岩倉金蔵寺 (金蔵寺)」、「巻之四 右白虎再刻 西岩倉金蔵寺 (金蔵寺)解説」
西岩倉金蔵寺 (金蔵寺)(拡大図)
山門からの参道のカメラです。
手水舎前広場手前西側参道のカメラです。
手水舎前のカメラで、参道右・カメラ東方向に護摩堂、左・カメラ南西方向に鐘楼、カメラ西方向に入山受付所、庫裏があります。
本堂手前石段途中のカメラです。
カメラ北方向が本堂です。