マーカーは伝能因法師墳です。
伝能因法師墳
[能因塚の名で親しまれる伝能因法師墳は、平安時代中期の歌人、能因法師の墓と伝えられています。
能因法師は、本名を橘永愷(たちばなのながやす)といい永延2年(988)長門守橘元愷の子(※wikipedia – 近江守・橘忠望の子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。)として生まれました。女流歌人伊勢(872年(貞観14年)頃 – 938年(天慶元年)頃))の作風を慕いつつ、当時の第一人者藤原長能に歌道を学び作歌に励んだといいます。
墳墓正面の顕彰碑は、慶安3年(1650)、高槻城主永井直清が建立しました。碑文は儒学者の林羅山によるもので、周辺には能因法師の吟稿を埋めたと伝えられる文塚や、名水の井戸として名高かった不老水、花の井があります。 (「伝能因法師墳 – 高槻市 新ホームページ」より)]
花の井(Google Map)
[高槻市指定「史跡」
花の井
古くから名水の井戸として知られ、昔は寒暑にも涸れることなく、清水がこんこんと湧き続けたという。別名山下水ともいわれ、能因法師の歌でも、
あし引きの山下水に影みれば
眉(まゆ)しろたへに我老(われおい)にけり
と詠まれている。天和二年(一六八二)、樋口氏が自宅と井戸の普請を行った際、顕彰文を井戸の内側に刻んだが、長い年月で文字は風化し清水も涸れ、石組だけが古い時代をしのばせてくれる。
高槻市教育委員会 (「花の井(山下水) – Google Map 画像」より。)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」- 「6巻47・古曽部能因法師墳伊勢寺花の井」
[図会中央右に「花の井」、その左に「能因塚」、左端に「いせ寺」と記述されています。]
「伝能因法師墳 – Google Map 画像リンク」「能因法師 歌碑 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向突き当り右の杜が伝能因法師墳になります。
伝能因法師墳(Google Map 画像)