佐賀藩蔵屋敷跡

マーカーは佐賀藩蔵屋敷跡碑です。

蔵屋敷(くらやしき)跡
[江戸時代、諸藩は年貢米の換金や産物の売りさばきのため、水運の便のよい中之島周辺に蔵屋敷を建てそこへ搬入、一時その管理にあたった。当地は高松藩蔵屋敷跡である。蔵屋敷には舟が屋敷内へ直接入れるよう水門が設けられていた。
 平成2年7月、大阪高等裁判所構内で地下駐車場の工事のとき佐賀藩蔵屋敷跡が発掘調査され、長大な船溜・屋形・米蔵などの並ぶ様子が確認された。明治5年、廃藩置県のときそれら蔵屋敷は払い下げられたが、その数135にも及んでいた。  (「13.蔵屋敷(くらやしき)跡 – 大阪市」より)]

[佐賀藩蔵屋敷は、明暦元年 (1665)には堂鴨川に面した天満2丁目にその所在が確認される。 元禄5年 (1692)には、多数の米蔵の他、米売り場等の業務施設、留守居小屋・役人小屋等の居住施設、藩主のための屋形、堂鴨川から舟で直接屋敷に入ることができる船人等を有し、敷地規模は約4200坪に達する、西国諸藩の蔵屋敷中最大級の規模であった。 この屋敷は、享保9年(1724)の大火で焼失し、その後に再建された屋敷の状況を示したものが下図である。

享保再建屋敷は、敷地の東側の中央から南部にかけて表御門と米蔵、南側には浜御門と米蔵、南西部に船人が設けられ、西側には陶器方長屋と中使長屋、北側に役人の長屋が配されている。敷地内には中央部の北寄りに御屋形、その西部に役所、船人の東側に米会所と米蔵、北側に稲荷社が設けられている。この稲荷社は、本国佐賀の正現稲荷を勧請したものと考えられ、屋敷が再建された後の寛保3年(1743)に再建されている。  (「-55- 大坂蔵屋敷の年中行事と蔵屋敷祭礼について – 大阪市立大学」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「4巻26・蔵屋敷

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図を右にスクロールして、中之島の右に架かる難波橋の左上が、佐賀藩蔵屋敷になると思われます。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図左上、大川に架かる難波橋の左下、五区画目に「鍋島(佐賀藩)」と記述されています。

カメラ北東方向に佐賀藩蔵屋敷跡碑が設置されています。