光善寺

マーカーは光善寺です。

光善寺
[光善寺(こうぜんじ)は大阪府枚方市にある真宗大谷派の寺院。山号は淵埋山(えんまいざん)、本尊阿弥陀如来
文明7年(1475年)、吉崎御坊を退去した蓮如河内国茨田郡の出口村(現・枚方市出口)に移り住んだ。当時、出口はわずか9戸の寒村であったが、蓮如はここに出口御坊の建立を進めるとともに3年間在住し、近畿一円の教化を進めた。山号の淵埋山は当時この地にあった大きな池を埋め立てて諸堂を建立したことに由来し、寺号の光善寺は出口に草庵を建てて蓮如を支えた門弟の御厨石見入道光善から取られたものとされる。御坊の建立に伴って周辺には多くの門徒が移り住み寺内町が形成された。
文明10年(1478年)、蓮如が山科本願寺の建立のため山科に移る際に長男の順如を住職に指名。順如は大津の顕証寺(現・本願寺近松別院)から当寺に移り住んで2世住職となった。また、蓮如は出口御坊を近畿一円の御坊の筆頭格とした。
文明15年(1483年)に順如が早世すると、蓮如は外孫の光淳を次の住職とするなど浄土真宗の寺院においては重要な寺であったが、天文3年(1534年)火災によって焼失。一時、摂津国島下郡鳥飼(現・摂津市)や、河内国茨田郡大場などを転々としたのち、慶長年間(1596年 – 1615年)に再び出口に戻って再建された。この頃に光善寺の寺号を賜るとともに院家に補されたという。
6世の顕勝は石山本願寺での合戦において功績があり、慶長年間に起きた本願寺分立に際しては准如に従って西本願寺の側についた。7世の准勝は恵光寺5世の良超らと共に一旦は東本願寺に移ったが、間もなく西本願寺に降った。8世の准玄は本堂を再建、西本願寺の学寮において能化職を務めたが、元禄9年(1696年)に10世の寂玄が東本願寺に属して現在に至るという。

山門・wikipedia-photo

太鼓楼・wikipedia-photo

鐘楼・wikipedia-photo

本堂・wikipedia-photo

  (wikipedia・光善寺_(枚方市)より)]

河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画 – 早稲田大学」 – 「出口光善寺(6巻26)

カメラ西方向が光善寺山門です。

光善寺境内のカメラで、カメラ西方向が本堂です。