八軒家船着場跡碑(八けん屋着船之図)

マーカーは八軒家船着場跡碑です。

八軒家船着場跡碑
[天満橋天神橋の間の南側は、平安時代の、四天王寺熊野詣の上陸地点であった。八軒家の地名は、江戸時代このあたりに8軒の船宿があったためといわれる。その当時は三十石船が伏見との間を往来して賑わった。明治に入ると外輪船が登場し、所要時間も短縮されたが、鉄道の出現で船による旅客の輸送は終ったが、貨物輸送は昭和20年ごろまであった。  (「46.八軒家(はちけんや)船つき場跡 – 大阪市」より)]

[江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、淀川舟運の要衝として栄えた。
このころの八軒家浜の様子は多くの文芸・美術作品に描かれている。十返舎一九東海道中膝栗毛』第八編には、舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸する場面がある。また摂津名所図会「八軒屋」(『摂津名所図会』大阪部四上-5p)、浪花百景「八軒屋夕景」(1800年代。歌川國員/画)が知られる。  (wikipedia・八軒家船着場より)]

八けん屋着船之図 歌川広重画(八けん屋着船之図.pdf)

[天神橋と天満橋の中間南岸をさす地名で、古く川に沿って家が8軒あったから八軒家であると『浪花奇談』に記されている。
 ここには古くから船着場があり、大坂の水上交通の拠点として繁栄した。享保7年(1722)には最盛期を迎え、往来する船は740艘、それらを目当てに物を売りに来る「くらわんか船」など大いに賑った。『摂津名所図会大成』にも「埠頭には行商人や馬方や船客であふれ返り、乗り手押合い弁当ぱくつき、荷物積み船賃集め、昼夜を分かたず口々にかしましく繁昌の証し」とあり、往時の喧噪が窺われる。  (「八軒家 – おおさかポータル」より)]
1796年(寛政8年)-1798年(寛政10年)に刊行された、摂津名所図会「八軒屋」を参考に描かれたものと思います。

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「4巻5・八軒屋

歌川國員/画 八軒屋夕景(wikipedia-photo)

カメラ南南西方向に八軒家船着場跡碑があります。