兵庫の生洲碑・遠矢の浜

マーカーは兵庫の生洲碑です。

兵庫の生洲
[江戸時代。兵庫の名物として元禄一四年(一七〇一)の『摂陽群談』は漬やすだれ干しの小鰯を挙げている。当時、兵庫は活け魚でも知られ、当地の宿泊客や大坂の市場に早船で売り出して好評であった。寛政八年(一七九六)の『摂津名所図会』は、魚市のほか南浜の今出在家町にあった『兵庫生洲』を絵入りで紹介し長さ十三間、幅四間(約二四メートル×七メートル)ほどで屋根を持ち、潮水をたたえた池中にはほかさまざまな魚が飼われていると記している。この生洲からは、しけや不漁の時に活け魚を市場に供給したほか、京の御所からの調達にもここから魚を献上したといい、また旅の名所でもあると記している。当地が、江戸時代に瀬戸内海航路東端の港として賑った兵庫の津の、貴重な生洲の址である。
 近在では、明治六年に和田神社旧境内の周囲に五反余り(約四五〇〇平方メートル)の和田遊園が開かれ、和田岬には和楽園という名所を設けられた。和楽園には明治二十八年にわが国で最も早く水族館が開設され奇魚異貝を収集した。兵庫生洲の後身といえなくもない。
          撰 田辺眞人  (南浜公園 – Google Map 画像より)]

和田神社
[和田神社(わだみや)とは兵庫県神戸市兵庫区和田宮通3丁目2-45にある神社。和田宮ともいう。
太古の昔、蛭子大神が淡路島から船で本州に到着したところを「蛭子の森」という。蛭子の森は、現在の神社より西南約800mのところで、元々の神社の場所である。平清盛承安3年(1173年)、市杵嶋姫大神を勧請した。万治元年(1658年)、天御中主大神の坐す神輿が流れ着き、種々の神異をあらわし、それを知った当時の尼崎城主が天御中主大神を主神にして社殿を造営し、和田の明神というようになった。明治34年(1902年)、造船所の建設のため現在地に遷座した。  (wikipedia・和田神社_(神戸市)より)]

本間孫四郎遠矢碑
[延元元(1336)年の湊川合戦で和田岬一帯に陣を敷いた新田義貞軍に対し、足利尊氏は海から押し寄せた。新田方の本間孫四郎重氏は波打ち際の松の木に馬を寄せ、沖の船に向かって遠矢を射て両軍から喝采を浴びたと、『太平記』が記している。以来この付近は『遠矢の浜』と呼ばれ、松のかたわらに建てられていた『遠矢の松』の石碑もここに移されている。(※和田岬小学校校内には「本間重氏遠射之跡」を記した碑が建てられている。wikipedia本間重氏より)  (「神戸市兵庫区:尊氏 正成と戦の時代」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「10巻36・兵庫生簀今在家町の濱にあり

10巻39・和田社和田尾嵜達矢濱

[図会は遠矢の浜で、浜左端に和田岬が描かれ、右ページに和田神社が描かれていますが、和田神社は明治34年(1902年)、造船所の建設のため現在地に遷座しました。]

10巻41・本間孫四郎和田尾嵜遠矢

兵庫の生洲碑前のカメラです。