処女塚古墳・小山田高家の石碑

マーカーは処女塚古墳です。

処女塚古墳
[処女塚古墳(おとめづかこふん)は、兵庫県神戸市東灘区にある古墳。形状は前方後方墳。国の史跡に指定されている。
築造年代は3世紀後半と推定されている。1922年(大正11年)3月8日に国の史跡に指定された。主に山陰系土器が出土しており石屋川流域に存在する郡家遺跡集落の一部とされている。
所在地から西約2000メートルの位置にある西求女塚古墳、東約1500メートルの位置にある東求女塚古墳とともに、万葉集大和物語などに登場する悲恋伝説(菟原処女の伝説)の舞台として知られている。
古墳の脇には、湊川の戦いに敗れた新田義貞を逃すためにこの地で討ち死にした小山田高家の石碑が建っている。

墳丘(左に後方部、右に前方部)・wikipedia-photo

小山田高家碑と田辺福麻呂歌碑・wikipedia-photo

  (wikipedia・処女塚古墳より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「9巻37・東明村求塚.JPG

[図会左ページに求塚(処女塚古墳)、右ページに八まん(東明八幡宮)が描かれています。]

菟原処女の伝説
[菟原処女の伝説(うないおとめ の でんせつ)とは、奈良時代より日本の摂津国菟原郡菟原(現在の兵庫県芦屋市および神戸市東灘区付近)での古の出来事として伝えられてきた、一人のおとめ(年若い女性)を巡る悲しい妻争いの伝説である。妻争い伝説(つまあらそい – )ともいう。
2人の男から求婚された娘が自ら命を絶ち、男達も後を追って死んでしまったというもの。
兵庫県神戸市の東部地域から芦屋市域にかけてが、当時の難波の先の湾の湿地帯に茂る葦(あし)を材として屋根を葺いた家々のあったことに由来する「葦屋(あしのや)」の地名で呼ばれていた頃の話である。
菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と、和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な男性が彼女を深く愛し、妻に迎えたいと激しく争うようになった。娘はこれを嘆き悲しみ、「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、生きていても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます」と母に語ると自ら命を絶ってしまった。茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て彼女が愛していたのは自分だと知り、後を追った。菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって後を追った。その後、親族たちは集まって、このことを長く語り継ごうと、娘の墓を中央に男の墓を両側に作ったという。
摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「9巻40・益荒丁子等妻

[益荒丁子(ますらをのこ)等妻(つま)を互(たがひ)にあらそひ 生田(いくた)川にて水鳥(みづとり)を射いる
上記は画面右上にある原文。「益荒丁子(ますらをのこ)」は「益荒男(ますらお)」のこと、すなわち「立派な男」の意。
摂津名所図会』(江戸時代後期)より。ここに描かれているのは、脚色の加わった『大和物語』第147段、通称「生田川」に基づく内容で、生田川に浮かぶ水鳥を射ようとする2人の男が左手上下に、それを見守る菟原処女が左手中央に見える。石田友汀(石田幽汀の次男)画。
旧跡
神戸市東灘区御影塚町にある処女塚は、娘「菟原処女」の墓、付近にある西求女塚(灘区都通に所在)と東求女塚(東灘区住吉宮町に所在)は2人の求婚者の墓と伝えられる。しかし実際の築造時期はそれぞれ異なっているために事実とは考えられず、この地方の豪族を葬った墓と見られる。  (wikipedia・菟原処女の伝説より)]

処女塚古墳参道口のカメラで、参道口左の石碑は、右が小山田高家の顕彰石碑、左が田辺福麻呂の歌碑です。

8巻40・湊川の戦い

[小山田高家(おやまだ たかいえ)の碑
延元元年(一三三六)、湊川の戦いに敗れた新田義貞は、生田の森から東に敗走して東明(処女塚付近辺)まで来た。しかし、近づいた追手の矢で馬はたおれ、義貞は馬を降りて、処女塚に登って敵を防いだ。その窮状をはるかに眺めた小山田太郎高家は、これまでの義貞の恩義を思い出して、塚に駆け寄って自分の馬に義貞をのせて、東に逃れさせた。高家は塚上に留まって敵を防いだが、味方の敗色は濃く、ついにこの処女塚の上で討たれてしまった。「太平記」の描くこの武勇を記念して、弘化三年(一八四六)の代官竹垣三左衛門藤原直道が東明村塚本全左衛門・豊田太平・牧野壮左衛門に命じて建てさせものである。

田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の歌碑
 「古(いにしえ)の 小竹田荘士(しのだをとこ)の 妻問(つまと)ひし 
       兎原処女(うねひおとめ)の 奥つ城(き)ぞこれ」
この歌は、万葉の歌人、福麻呂が旅の途中で処女塚に立ち寄った時の現況と、それから受けた感動を歌ったものである、古くから処女塚古墳には、東灘区住吉宮町一丁目の東求女塚古墳と灘区都通三丁目の西求女塚古墳にまつわる悲恋の伝説が言い伝えられている。
この伝説は、二人の男性が一人の女性を慕ったため、女性は身を処しかね、嘆きつつ死んでしまった。
それを知った二人の男性も悲しみ後を追った。女性の墓を中にして、男性の墓を東西に造ったという物語である。側面には八十一叟正四下位加茂季鷹とある、その左方に建碑年号と思えるものがあるが明らかではない。               
 平成六年三月 神戸市教育委員会  (処女塚古墳(おとめづかこふん) – Google Map 画像より)]