加賀藩前田家岡崎屋敷跡

マーカーは加賀藩前田家岡崎屋敷跡です。

[幕末期には藩主前田斉泰とその嫡男である前田慶寧がたびたび上洛しますが、すべて建仁寺に入り滞在しています。これは、随従する多くの藩士を京都に滞在させるには河原町三条邸では規模が小さかったためとおもわれますが、建仁寺全体を借り受けたわけではなく、必要な範囲にかぎって借り受けました。さらに、元治元年(1864)に当時世嗣であった前田慶寧が京都警衛を命令されたことから新しい陣屋の地を岡崎村に借り受け、慶応3年(1867)8月には賜邸にしたいと願い出て幕府に了承されています。この岡崎屋敷の規模は河原町三条邸と比較しても格段に大きく、ここに警衛のための軍事力を駐屯させていました。
以上から、加賀藩の者たちが京都において拠点としていたのは、近世初期から藩邸の機能を有していた河原町三条邸のほか、幕末期には建仁寺と岡崎屋敷があったことがわかり、とりわけ建仁寺と岡崎屋敷は幕末期における加賀藩の軍事的な拠点として機能していたと考えられます。
京都新御屋敷絵図(右の流れは白川で、左端の道が二条通り、その右の道が仁王門通り、右上に南禅寺道と読める道が描かれ、左隣に薩州と記述されています。)

  (「加賀藩と京都」より)]

「京都新御屋敷絵図」をマイマップに描いてみました。

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(成立西暦・1868年)」(絵図中央右方向・鴨川右方向に加州屋敷と描かれています。)

国際日本文化研究センター – 琵琶湖疎水地圖(明治23・1890年)」(地図中央左方向・岡崎の字「幹線」の「幹」のエリア寺町右、二条から白川の間、右方向は二条に右端付近くらいまでが京都新御屋敷になると思います。)

カメラ位置は岡崎公園前二条通りで、カメラ南方向神宮道両サイドが加賀藩前田家岡崎屋敷跡になります。