千日墓地跡

マーカーは千日墓地黒門跡です。

千日墓地
[かっては、近郊農村地である西成郡難波村と西高津村の一部であり、大坂の陣のあと、市内にあった墓地の整理が行われた際、「大坂七墓」の一つとして「千日墓地」と呼ばれる大規模な墓地がこの地に設置され、刑場・焼き場も併設された。
元和元年(1615)、松平忠明が市街整理のひとつとして市中の寺院と墓地の移転廃合を行い、ここ千日前(現・千日前通りの南側)に墓地・刑場・焼き場が開設された。
 内本町の西町奉行所近辺にあった牢獄から、本町橋を西へ向かって西横堀川を南下し、道頓堀川を東へ向かって千日前刑場に向かうのが市中引き回しのルートであった。
●北側の黒門を入ると左手に高い塀で囲われた「刑場((晒し台・磔台・獄門台)」があり、その先の両側に「墓地」が広がって奥に「迎い佛」が建っていた。その先の「無常の橋」を渡った左手に「六坊」(墓守の聖(ヒジリ)が住む寺)が建ち、 一番奥に「焼き場」と「祭場」及びその東奥に「灰山」(焼かれた人骨を積み上げた場所)があった。
「刑場」は、「大坂七墓」 のうちでも、この千日墓地にのみ常設され、獄門刑が執行された。
なお、「千日前」の名は、六坊こと「千日山安養寺」の前だから という説もある。
明治4年(1871)に刑場が廃止され、明治7年に焼き場と墓地も阿倍野へ移設された。
明治18年(1885)12月に阪堺鉄道南海電気鉄道の前身)の難波駅が開業して人並みが増えると、墓地の跡地に芝居小屋や寄席、映画館などが立ち並ぶようになり、現在の千日前の原型が出来上がっていった。
●なお、墓地の北側(法善寺の南隣)にあった「竹林寺」でも千日回向が行われ、「千日寺」とも呼ばれていたが、平成20年12月に天王寺区勝山(四天王寺のすぐ東隣)へ移転し、その跡地には、現在、ボーリング場の「ラウンドワンスタジアム千日前店」が建っている。 千日墓地の「榎地蔵尊」には、六坊にあった榎が祀られている。
㊟ 大坂七墓=梅田墓地、葭原墓地、鳶(飛)田墓地、小橋墓地、蒲生墓地、南浜墓地と千日墓地。
●刑場の東隣にあった「自安寺」は、昭和42年に堺筋東の現在地(大阪市中央区道頓堀一丁目東五番13号)に移転し、その跡地は、心斎橋の三津寺が管理する「三津寺墓地」(松林庵)になっている。  (「Ⅳ「千日前地区」について」より)]

千日墓所図(「十三のいま昔を歩こう : 千日墓地」より)

  
大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図をスクロールして、道頓堀川の東横堀川と西横堀川の間、右から五本目の橋が太左衛門橋で、その左下のピンクの区画下が竹林寺で、そこの右下に自安寺、千日墓所と記述されています。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図中央右、道頓堀川の太左衛門バシの右方向に「竹林寺」、その右上に「自安寺」と記述され、その下に刑場と記述されています。

大阪實測圖」(明治19(1886)年)地図中央下方向、道頓堀に架かる太左衛門橋下方向、字北河原が墓地・刑場・焼き場で、そこに記述される「慈安寺」が「自安寺」で、そこの左上に竹林寺が描かれ、その間に黒門があったようです。(黒門があった場所は千日前通の道路のあたり。)

カメラ位置は千日墓地黒門跡付近です。