千本松渡船場

マーカーは千本松渡船場です。

千本松渡船場
[大正区南恩加島1丁目と西成区南津守2丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。
 このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところであった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。千本松の名は、この堤防の上に植えられた松並木に由来する。「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」と述べている。
 千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしないが、大正時代の中頃に初めて設けられたものと思われる。昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止されることになっていたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も通勤通学の貴重な足として利用されている。令和2年度現在、1日平均約885人が利用している。  (「6.千本松(せんぼんまつ)渡船場 – 大阪市」より)]

南粋亭芳雪/画 木津川口千本松(wikipedia-photo)

[木津川口は諸国廻船が出入りする要港であったので、幕府は天保3年(1832)に石堤を築いて防波堤を設け港を整備しました。石堤の上には松が植え連ねられ、千本松と称されました。天の橋立三保の松原とも肩を並べるほどの景勝地として見物人が多く、潮干狩りや舟遊びに打ち興じました。秋にはこの辺りの川口ではハゼ釣りが盛んで、小舟を仕立てて釣り糸を垂れ、あるいは漁夫に網を打たせ、とった魚を調理して終日ここで酒宴を催すものもありました。釣り客目当ての物売り船も出てにぎわいました。
 現在この付近は工場地域となり、千本松渡船と近代的なループ橋の千本松大橋にその名をとどめています。  (「今週の今昔館(122) 木津川口千本松 20180731」より)]

千本松渡船場南恩加島側のカメラです。