マーカーは天水分神社です。
南朝旧臣位衆傳御の碑
[南北朝時代は後醍醐天皇による建武の中興(1333)の3年間と、吉野に都を構えて以降3代の天皇による57年の歴史を数えます。その3分の2以上の期間は、奥吉野の各地に拠点がおかれました。天川の郷でも川合地区の河合寺が黒木の御所として、また沢原地区の光遍寺、坪内地区の天河大辨財天社についても南朝に組しそれぞれ行宮とされました。なかでも天河大辨財天社の行宮では、宮中さながらの栄華を極めたといわれています。嘉喜門院集に「天授三年七月七日吉野行宮御楽あり、嘉喜門院琵琶を弾じ天皇和歌を詠ず」としるされています。
天川郷の人々も積極的に加担し、村内の地区ごとに傳御組(おとな組)を組織して忠勤を果たしました。天河郷には十三通の綸旨、令旨が下賜され現存しています。そのなかには天河郷の忠誠を賞でられたものや、その加賞として天河辨財天へ賜った地行地配分のお墨付きなどが含まれています。 (「天の国:天川村の歴史と宗教」より)]
[南朝旧臣位衆傳御の碑
この地は南北朝時代「月登山河合寺」が存在し黒木御所として朝帝がしばしばご滞在あらせられた南朝ゆかりの深い場所であります。
はるか遠い私たちの祖先は、二つの朝廷に分かれて争っていた五十七年にも及ぶ南北町時代に後醍醐、後村上、長慶、後亀山の南朝四代の天皇に供奉し、輔翼忠義の実を尽くした天川郷士であります。
一三五〇(正平五年)後村上天皇より「南朝旧臣衆傳御」という他に類を見ない称号を下さりました。
爾来、位衆傳御の血脈の者が毎年古式行事である祭典と法要を継承し営んでおります。
はからずも後後醍醐天皇即位七〇〇年を迎えた本年、今を生きる位衆傳御の同志が相寄り相談して、常しえに南帝を敬慕し、私たちの祖先の遺徳を偲ぶ縁となる事を祈念してこの碑を建立します。
平成三十年十月吉日 (天水分神社 – Google Map 画像より)]
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「天川郷黒木御所」(7-12)
天水分神社参道前のカメラです。