史跡敦盛塚

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史跡敦盛塚
[史跡敦盛塚は、神戸市須磨区にある石造五輪塔である。
平敦盛は、清盛の弟 経盛(つねもり)の末子で、笛の名手として知られていた
寿永3年(1184)源平一の谷の合戦で、当時16歳の敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためこの五輪塔を建立したとの伝承から、「敦盛塚」と呼ばれるようになった。
また鎌倉幕府執権北条貞時平家一門の冥福を祈って建立し、「あつめ塚」と呼ばれていたのが、「あつもり塚」に転化したとの説もある。
石塔の前を往来する人々が香花を手向けていたといわれ、大正時代には、子供の病気の神様として信仰された。
お礼参りには、敦盛愛用の「青葉の笛」になぞらえて、穴をあけた竹に白紙を巻き、水引をかけたものを奉納したという。
五輪塔は花崗岩製の総高397cmの大きさで、中世の五輪塔としては、石清水八幡宮五輪塔に次ぎ、全国で第2位の規模を誇る。
室町時代末期から桃山時代にかけて制作されたもので、平成9年に神戸市の有形文化財に指定されている。
山陽電鉄須磨浦公園駅下車、徒歩3分。  (「ぐるりん関西 – 史跡敦盛塚」より)]

平敦盛
[平 敦盛(たいら の あつもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の弟・経盛の末子。
笛の名手であり、祖父・平忠盛鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)という笛を譲り受ける。
平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子・直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」の『平家物語』では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父・平経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。
この『平家物語』の名場面は、のちに敦盛』、幸若舞敦盛』、文楽/歌舞伎一谷嫩軍記』などの題材となった。織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞『敦盛』の一節である。  (wikipedia・平敦盛より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「11巻16・鉢伏山二ノ谷三ノ谷敦盛石塔

[図会右ページ左に「敦盛塔」と記述されています。]

史跡敦盛塚前のカメラです。