マーカーは史蹟若菜の里阯です。
史蹟若菜の里阯
[私たちの生活が洋風化し、古くからの生活習慣や年中行事が消えてゆく傾向にあります。しかし形は変わっても、季節に合わせ連綿と行われる行事もまた多いのです。
正月の7日、春の七草を食する「七草粥」もそんな風習のひとつ。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、と唱え言葉にもなって親しまれています。その昔、七草のひとつ、すずしろ(ダイコン)の名産地が神戸にあり、その地は「若菜の里」と呼ばれていました。
『攝津名所圖會』には「若菜調貢(9巻12p)」(わかなのみつぎ)として次のように記されています。「菟原郡中尾村の人、生田浦より若菜を採って禁裏に献る。七種の其一種なり。これを生田の若菜と呼ぶ。宇多天皇の御時より…(略)」。このことから、平安時代の9世紀末頃から、この地の若菜が知られていたことになります。また、延喜11年(911)に宮中の七草粥儀式のため若菜を献上した、と記した文献もあり、古くからこの地の「有名ブランド品」であったことをうかがい知ることができます。
石碑は新神戸駅東側の山すそ、中央区中尾町の住宅地の中に泉隆寺があり、その門前には「史蹟若菜の里阯」と寺の縁起を刻んだ石碑が建っています。超音山泉隆寺は弘長2年(1262)に僧西順によって建立されました。当初は真言宗の寺院だったのですが、文明3年(1471)、蓮如上人の巡錫の時、真宗に改宗します。このことは、神戸における真宗寺院の発祥ともなりました。
蓮如は、本願寺7世だった父の死後43歳で継職し、以後、三河から摂津にかけて積極的な布教活動を行いました。泉隆寺では、源平の争乱(寿永3年・1184)によって途絶えていた、宮中への若菜献上の行事を復活させました。この地のすずしろは泉隆寺に集められ、西本願寺を経て、宮中に送られたのです。以後この行事は、幕末まで続いたといわれています。
現在、泉龍寺の境内には蓮如上人の腰掛け石と蓮如の作として「旅人のみちさまたげやつのくにの生田のうらの若菜なりけり」という歌碑が立っています。が、この歌は、藤原師輔が「生田の小野の」と詠んだ歌の改作だともいわれています。
平安朝の和歌にも詠み込まれています。紀貫之は「行きてみぬ人も偲べと春日野の形見に摘める若菜なりけり」と、また宜秋門院丹後は「問はれねば誰かためとてか津の国の生田の小野にわかな摘むらん」と詠んでいます。
小倉百人一首の「君がため春の野に出でて若菜つむ吾が衣手に雪は降りつつ」という歌に代表されるように、古来、春を待ちこがれる人びとの、生命の再生のシンボルが「若菜」だったのでしょう。きっと「若菜の里」という土地もまた、吉祥のイメージを伴って語られていたと想像されます。
今の「若菜の里」は、ビルや住宅が集まり、農村風景を想像させるものは残っていません。地名として「若菜通」の名前が、ずっと南へ下ったJR線の所に残されているだけです。 (「KOBEの本棚 第29号 – 神戸市」より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「10巻9・生田浦若菜採り」
泉隆寺門前の史蹟若菜の里阯前のカメラです。