含翠堂跡碑

マーカーは含翠堂跡碑です。

含翠堂跡
[七名家の一人、土橋友直(ともなお)が享保(きょうほう)2年(1717)に発議し創設したものである。経書講読・国学・医学・算学等を教えたほか、飢饉の際に備えて基金を積み立て、救済活動も行った。明治5年(1872)学制発布のため閉鎖、155年にわたる歴史を閉じた。  (「22.含翠堂(がんすいどう)跡 – 大阪市」より)]

[現在、平野区平野宮町2丁目9-22地先に「含翠堂跡」と記された碑が立っています。「含翠堂」とは、平野七名家の一人、土橋友直ら五同志によって1717年(享保2年)に創設された、大阪初の民間学問所(郷学)です。「入学の節は貴賎を選ばす、師弟の盃あるべし」とされ、誰もが席に連なることができ、また、経営は、すべて同志の寄付金とその運用で維持されました。
 経書講読・国学・医学・算術・礼法等を教えたほか、しばしば歌合や連歌、俳諧、狂歌なども開催され、地方文化の中心地として多くの人々が集うようになりました。また、飢きんの際に備えて基金を積み立て、お粥の炊き出しなどもし、たびたび人々を救済し社会に貢献したことは、他の学塾に見られない特色です。
 1872年(明治5年)学制公布により閉鎖され、155年間の活動は終わりを告げました。  (「昔、平野区内にあった「含翠堂」について知りたい。」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「1巻72・於含翠堂東涯先生開講延ヲ

カメラ東方向が含翠堂跡碑です。