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呉服橋(猪名川)
[呉服橋(くれはばし)は、淀川水系の猪名川に架かる橋である。「呉服橋」の名称は、かつて池田が「呉服の里」と呼ばれていたことに由来する。かつては、順礼橋(または巡礼橋)と呼ばれ、表記された。
「順礼橋」という名称は、西国三十三所における第23番札所の応頂山勝尾寺と第24番札所の紫雲山中山寺とをつなぐ巡礼道の途上に架けられていることに由来する。
1815年(文化12年)、順礼橋の建設工事が完成される。高槻土砂奉行に届けられた仕様書によれば、長さは 65 間(およそ 118.3 メートル)、幅は 2 間(およそ 3.6 メートル)であった。同年3月12日に、渡り初めが行われている。
1822年(文政5年)、橋が大きく破損する。1866年(慶応2年)8月16日、橋の8割程度が破損する。1877年(明治10年)頃に、大規模な架け替え工事が行われ、名称が呉服橋に変更された。
1921年(大正10年)頃に、洪水により 1/3 が流失する。橋が産業道路のルートの一部となったために、架け替え工事が行われ、1932年(昭和7年)に渡り初めが行われている。1996年(平成8年)にも、架け替え工事が行われている。 (wikipedia・呉服橋_(猪名川)より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「7巻25・猪名川」
[猪名川(ゐなかは) 久安寺川・多田川二水木部村に会して流れ、池田に至って池田川といふ。下河原・北川原・桑津等を経過し、田能村に至り分かれて二流となり、一は椎堂・富田を歴て戸の内に至り神崎川に入る。一は西に流れて藻川といふ。
食満・額田・高田を歴て神崎に杢り神崎川に入る。 この川筋豊島郡・川辺郡の二郡に跨がり流れ下るゆゑ、ここに出だす。
初夏より秋に至り鮎・[魚追・いしぶし]など多し。漁者釣を垂れ、または手網をもってこれをとる。暑中の一興なるペし。
和歌に猪名の河原と詠めるは、今の中河原村なるペし。また猪名の溝川と読めるは、今の猪名川の西、川辺郡加茂村の下に有りて、水上は西明寺滝より流れて猪名野に続く溝川あり。これに寄すならんか。猪名川『夫水集』摂津国と云々。 (「6巻26・猪名川」)
寺社び修復などの勧進名目の相撲が各地で開催されたが、中でも池田は多くの相撲取を生み、育てた。
猪名川政右衛門は江戸時代中期に活躍した池田出身の力士である。元文4年(1739年) に池田の酒造業 多田屋に生まれたといわれ、宝暦5年(1755年) に藤島部屋に入門。翌年 初土俵を踏んだ。
最高位は小結であったが 人柄や取り口から人気を得、浄瑠璃 関取千両幟 の主人公のモデルとなるなど、当代きっての花形力士であった。
天明6年(1789年) 引退し 、その後 年寄初代 猪名川(現在の安治川として、大阪相撲の発展に貢献。寛政12年(1800年) 62歳で没した。
彼の存在は 池田の相撲熱を大いに高め、刺激を受けた プロ・アマ力士が池田から誕生した。まさに 近代池田文化を象徴する人物の一人といえる。 (「猪名川 – FC2」より)]
[池田炭は、奥郷と呼ばれた猪名川上流域の山間部で生産されたもので、集散地となった池田の名をとってこう呼ばれるようになりました。佐倉(千葉県)の白炭などとともに日本を代表する炭として広く知られています。クヌギ材を使用した火もちのよい良質な炭で、切り口が菊の花のように美しいことから「菊炭」ともいい、茶の湯では今日でも珍重されています。 (「池田炭 – 池田市立図書館」より)]
カメラ位置は呉服橋(猪名川)の中央部です。