四ツ橋跡碑

マーカーは四ツ橋跡碑です。

四ツ橋
[現在、ともに埋め立てられている長堀川西横堀川が十字に交差した地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称である。これら4つの橋は、長堀川が開削された1622年(元和8年)より間もなく架けられたと考えられる。
橋脚は3本の柱を横梁で補強されており、径間数は7-8で、橋脚間の幅は平均4-5メートルであったと推定される。橋の幅は、江戸時代前期にはそれぞれ約3メートルであったが、1881年(明治14年)の記録においては約6メートルになっている。本流の淀川より離れた位置にあるが、1845年(弘化2年)の淀川の洪水では、四つ橋のうち1つが流された記録がある。
●上繋橋(かみつなぎばし)
西横堀川に架かる北の橋。橋の長さは江戸時代前期で33.6メートルであり、1881年(明治14年)の記録では約35メートル。ほかの3つの橋と違い、この橋だけが川の交差部よりやや離れて架けられていたことから「縁切り橋」と呼ばれ、別れを招くとされた。1908年(明治41年)6月、大阪市電の東西線建設による長堀川北岸の拡幅に伴い、橋長27.2メートル、幅16.5メートルの鋼桁橋に架け替えられた。
●下繋橋(しもつなぎばし)
西横堀川に架かる南の橋。江戸時代前期の橋の長さは39.1メートルで、1881年(明治14年)の記録では約35メートル。
●炭屋橋(すみやばし)
長堀川に架かる東の橋。島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来する。江戸時代前期の橋の長さは40.6メートルで、1881年(明治14年)の記録では約35メートル。
●吉野屋橋(よしのやばし)
長堀川に架かる西の橋。北堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来する。江戸時代前期の橋の長さは42.4メートルで、1854年(嘉永7年)の橋の番付表では約3メートル短くなっており、1881年(明治14年)の記録でも40メートル弱である。
1924年(大正13年)の更正第一次都市計画事業に基づき、1927年(昭和2年)12月に上繋橋、1928年(昭和3年)2月に下繋橋と炭屋橋、同年11月に吉野屋橋が架け替えられた。それぞれ全長25-34メートル、幅は上繋橋が27.4メートルであるほかは約9メートルのアーチ橋で、アーチ橋としたのは河川舟運を考慮したものと考えられる。しかし、太平洋戦争後の高度成長期になると自動車の交通量が急増し、道路拡張のため、1964年(昭和39年)、西横堀川の埋め立てにより上繋橋と下繋橋は撤去され、1970年(昭和45年)には、長堀川の埋め立てにより炭屋橋と吉野屋橋も撤去された。
なお、橋は4つとも撤去されたが、上繋橋跡は長堀通東行き、下繋橋跡は西長堀南通(北堀江側)または鰻谷北通(島之内側)、炭屋橋跡は横堀筋と、吉野屋橋跡を除いて現役の道路として残っている。
里の家芳瀧(中井芳滝)/画 四ツ橋(wikipedia-photo)

江戸時代の四つ橋(浪花百景) (画像右上が船場側。上繋橋が川の交差部よりやや離れているのがわかる)  (wikipedia・四ツ橋より)]

[四つ橋は、大阪人にとってなつかしい橋である。ここより東の阪神高速道路下と長堀通りが交差する所を囲むように方形に架かっていた。
 西横堀川、長堀川の埋立てによって橋としての歴史を終え、地名として名を残すのみとなったが、橋を愛する人々の心に生き続けている。この四つ橋を偲ぶよすがとして整備を行った。
 照明柱を中心に四つの橋を配置し、江戸時代の木橋を表現するため、橋の欄干と床面は木製とし、川面は砂利を埋めた床で、旧橋の親柱に埋込まれていた橋名板を照明柱の台座に残すとともに橋長は約10分の1、幅員は約6分の1として、正面には顕彰碑を配置している。
 また、ここより東に向い阪神高速道路を隔てた横堀筋沿いに二つの句碑を並べて設置している。

 涼しさに 四つ橋をよつ わたりけり (来山)
 後の月 入りて貌よし 星の空 (鬼貫)

 これらの句碑は、変わりゆく時代の中、四つ橋を静かに見守っている。  (「四つ橋(よつばし) – 大阪市」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「5巻16・四ツ橋

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図を縦横にスクロールして一番下の横水路が道頓堀で、そこの二つ上が長堀で、堀中心に四ツ橋が描かれています。

カメラ位置は四ツ橋跡碑前になります。