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四天王寺
[四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。山号は荒陵山(あらはかさん)。本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。
宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。
康安元年(1361年)には金堂が地震で倒壊し、後に復興したが、応仁の乱の際には大内政弘によって放火されている。
天正4年(1576年)5月には織田信長による大坂本願寺攻め、いわゆる石山合戦のうちの天王寺の戦いにより、織田軍に火を付けられて全焼している。その上、寺領を全て没収されている。
天正12年(1584年)には金堂が建立された。文禄3年(1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われ、単層の金堂が重層に改築され、ほかの堂舎も再建された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって大和国額安寺から五重塔が移築され、4代目の五重塔としている。また、庚申堂なども再建されている。翌慶長6年(1601年)には秀頼によって千石が寄進されている。
しかし、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失する。そして、元和9年(1623年)に将軍徳川秀忠によって5代目五重塔や伽藍が再建され、その他の堂も江戸幕府の援助で再建されたが、享和元年(1801年)の落雷で五重塔や金堂を始めとして境内の東半分が全焼した。
大坂白銀町の町人淡路屋太郎兵衛が中心となって文化10年(1813年)に6代目五重塔や伽藍が再建される。
文化10年に再建された伽藍は昭和期まで残っていたが、1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風で6代目五重塔が全壊。中門側に倒れたため中門もそのあおりで倒壊、金堂も大被害を受けた。五重塔は1940年(昭和15年)に7代目が再建されるが、1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝東大門や庚申堂の他、中心伽藍もろとも焼失した。7代目五重塔はわずか5年の命であった。
1950年(昭和25年)9月3日、ジェーン台風により新たな金堂が崩壊する。逃げ遅れた参詣者2人が下敷きとなり1人が死亡している。この金堂は、18世紀に六時堂の北に建築された食堂を戦後に移築したものであった。収蔵されていた仏像は無傷のまま回収された。
現存の中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建にかかり1963年(昭和38年)に完成したもので、五重塔はこれで8代目となる。鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現したものである。
石鳥居・wikipedia-photo
南大門・wikipedia-photo
五重塔、金堂、講堂・wikipedia-photo
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四天王寺境内図(「オープンストリートマップ」より。)
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「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」- 「2巻3・四天王寺南大門前」、「2巻4・四天王寺伽藍」、「2巻5・其二」、「2巻6・其三」、「2巻10・太子堂生身供」、「2巻11・修正会」、「2巻12・正月十一日金堂手斧始」、「2巻16・二月廿二日聖霊会」、「2巻18・天王寺庚申堂」、「2巻19・庚申祭り」、「2巻23・三月二日経供養」
四天王寺伽藍(拡大図)

太子堂生身供
修正会
南粋亭芳雪/画 四天王寺(wikipedia-photo)
歌川國員/画 四天王寺伽藍(wikipedia-photo)
大阪の地図(1686年)(拡大図)
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絵地図をスクロールし、絵地図右下に四天王寺が描かれています。
[四天王寺西門の西では牛市が開かれていた。備前・備中などから引かれてきた牛を独占的に売買し、摂津・河内など周辺地域に供給する拠点となっていた。
成立年代を示す明確な史料はないが、豊臣政権が牛市を公認し保護する判物(はんもつ)が残っており、16世紀後半には市が存在していたことが明らかである。
中絶期間はあるが、江戸時代を通して牛の流通に重要な役割を果たした。牛市を支配し代々その司(つかさ)をつとめたのが天王寺孫右衛門であり、石橋家は司の後裔にあたる。 (「石橋家文書 一括(126点) – 大阪市」より)]
[野沢温泉村(長野県)が建立した記念碑には「野沢菜原種 旅の起点」と記された。野沢菜は、1756(宝暦6)年に健命寺(野沢温泉村)の住職が修行先の大阪から持ち帰った天王寺蕪の種を寺で育てたのが起源と伝えられ、高冷地のためカブの部分が大きくならず葉だけが育ったという。
なにわの伝統野菜にも指定されている天王寺蕪は天王寺が発祥とされ、江戸時代は多くの畑があったと伝えられている。 (「四天王寺に「野沢菜」伝来記念碑 天王寺蕪が起源」より)]
「仁王門前 護摩道場 – Google Map 画像リンク」「四天王寺中門(仁王門) – Google Map 画像リンク」「四天王寺五重塔 – Google Map 画像リンク」「四天王寺金堂 – Google Map 画像リンク」「四天王寺西重門 – Google Map 画像リンク」「野沢菜原種旅の起点の碑 – Google Map 画像リンク」
四天王寺南大門前のカメラです。
中門
五重塔
金堂