土佐藩蔵屋敷跡(岩崎家舊邸跡)

マーカーは岩崎家舊邸跡碑です。

土佐藩蔵屋敷
[高知藩は、元和七年(一六二一)に江戸堀に所在した屋敷を売却し、長堀白髪町に屋敷地を購入した。「御当家年代略記」(以下「年代記」と略記)によると、その後、寛永五年(一六二八)八月に長堀白髪町北側で二カ所、同十三年に長堀白髪町南側、明暦三年(一六五七)に高橋町で屋敷地を購入している。その後、同屋敷は享保九年(一七二四)、寛政四年(一七九二)の大火にも罹災を免れ、享保二年には敷地内に稲荷宮の社殿が造営されている。大坂屋敷は長堀白髪町南側と高橋町に位置し、敷地中央部の大道を隔てて東西に分かれており、その規模は、東屋敷が約二〇五八坪、西屋敷が約二二五二坪で、中央部の大道を含めると全体では約四四九五坪となる。
東屋敷は、西側中央部の「表御門」、その北の「御米蔵」、北面の二カ所の「米出御門」と「御門」、長屋、東面の北側約三分の二の「御米蔵」、そこから南面に「御貸家」が配されている。屋敷の中央部北寄りに御殿、その南面には塀で区画された「御殿御庭」「御庭」が設けられ、御殿の南東には「御米蔵」、北東には「御賄方」「御買米方役所」などの多様な施設が配されている。貸家は三棟(一四四坪)あり、塀で区画された裏庭を含むと約四〇八坪になり、東屋敷地の約二割を占めている。
西屋敷は、敷地の中央部を塀で区画し、北寄りに長屋など、南寄りに「稲荷宮」「磐根宮」「舞台」「池」「御船手方道具蔵」などが配置されている。敷地の西面は、塀と「御作事場」「御扶持米蔵」「御扶持米役所」など、北面には「御門」「御蔵」「御用心門」「御銀役所」「御在役座敷」「御銀蔵」や住居などが設けられている。また南面には貸家が二棟(一二三坪)配され、裏庭を含むと三七四・四坪の面積になり、貸家の中央部には門が設けられている。
 長堀川沿いの大道の東西端には「柵御門」「辻番所」が、また中央部大道の南北端にも「柵御門」が設けられており、藩主が滞在する際はこの道を通って御殿に入ったものと考えられる。大坂屋敷図によると、西屋敷の前の長堀川に「口入(船カ)・御座口(船カ)」が記されている場所は、御座船の繋留地と、船を接岸する船入りであったと推察される。また、長堀川の浜地では材木の販売が行われが)。

高知藩大坂屋敷図  (「高知藩屋敷の建築構成について – J-Stage」より)]

岩崎家舊邸跡
[岩崎 弥太郎は1835年1月9日、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下浪人岩崎弥次郎美和の長男として生まれる。
岩崎家は信寛の代に安芸氏長宗我部氏に仕え、関ヶ原の戦いでの功が認められた山内氏入国後は山野に隠れて農耕に従事し、江戸中期郷士として山内氏に仕えた。天明の大飢饉一揆が起きるなど混乱し、弥太郎の曾祖父の代に郷士の資格を売り、地下浪人となった。
伯母が嫁いだ岡本寧浦について学んだ。安政元(1854 )年、江戸詰めとなった奥宮慥斎の従者として江戸へ行き、昌平坂学問所教授安積艮斎の見山塾に入塾する。筆頭塾生は親戚の岩崎馬之助だった。
安政2年(1855年)、父親が酒席での庄屋との喧嘩により投獄された事を知り帰国。奉行所に訴えたが、証人は庄屋の味方をした。「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書したため投獄された。この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。
出獄後、村を追放されるも安政5年(1858年)、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得る。東洋が参政となるとこれに仕え、土佐藩の下級藩士の一人として長崎に派遣され、清朝の海外事情を把握するためであった。イギリス人オランダ人など「異人」と通訳を介して丸山花街で遊蕩し、資金がなくなり、帰国するが無断帰国であったため罷免され、官職を失った。この頃、27歳で弥太郎は借財をして郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る。
吉田東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国。武市一派の讒言によるものだった。(尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる)。この直後、大坂にいた井上や広田章次は岡田以蔵らによって暗殺された。帰国後、弥太郎は農事に精を出した。慶応元年(1865年)、官有林払下げ許可が下りた。
当時土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバークニフラー商会とも取引をしている。これら欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材並びに強心剤・防腐剤として使用されていた樟脳、鰹節など藩物産を販売しており、吉田東洋の甥の後藤象二郎が弥太郎に主任を命じた。 慶応2年(1866年)春に起こった土佐藩物産の樟脳の市場価格暴騰により、土佐藩がクニフラー商会との間で契約不履行が生じた際には弥太郎が窓口となったが、この問題の決着は明治維新後まで長期を要した。また明治維新後、グラバーは三菱に雇われる事となった。 慶応3年(1867年)になると、吉田東洋門下の福岡藤次に同行を求められ長崎へ行く。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となっていたが、慶応4年閏4月には解散し、弥太郎は藩命を受け同隊の残務整理を担当した。その後弥太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、明治元年(1868年)、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。
明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立ち上げた。代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助、弥太郎は事業監督を担当した。明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励した。明治4年(1871年)の廃藩置県で彌太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となった。九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江土佐稲荷神社付近)を買い戻した。岩崎弥太郎は当地に本邸を構え事業を営み、三菱の発祥の地となる。邸宅跡は現在石碑が建てられている。明治期当時、外国船は日本の国内航路にまで進出しており、明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えたが太刀打ち出来ず、また三井、鴻池、小野組などに設立させた日本国郵便蒸汽船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与え、運航助成金も支給したがはかばかしくなかったのに対して、九十九商会は高知—神戸航路、東京—大阪間の輸送で上潮だった。
明治5年、九十九商会は三川(みつかわ)商会となったが、代表は川田小一郎、石川七財、中川亀之助で弥太郎の権限は曖昧不分明である。
明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年本店を東京日本橋南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更した。この時、土佐藩主山内家の三つ柏紋を元にして(後に岩崎家の三階菱紋の家紋の意味合いを持たせる)現在、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。
弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。  (wikipedia・岩崎弥太郎より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図を下にスクロールし、九条嶋の右方向にスクロール、九条嶋右方向の横水路が西長堀川で、左から三つ目の橋が鰹座橋で、そこの左上、下に松平土佐守と記述されています。下の土地が土佐稲荷社のある土地で岩崎家舊邸跡になります。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図中央右、長堀に架かるカツヲザバシの左下、二区画に「土佐」と記述されています。

カメラ位置は土佐稲荷神社境内で、カメラ南南西方向に岩崎家舊邸跡碑があります。