マーカーは多田神社です。
多田神社
[多田神社(ただじんじゃ)は、兵庫県川西市多田院多田所町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。前身は「多田院法華三昧寺」と号した天台宗のち真言律宗の寺院であり、境内は現在でも「多田院」の名称で国の史跡に指定されている。初期清和源氏の本拠地であった旧摂津国多田に鎮座する源氏一門の祖廟であり「清和源氏発祥の地」とも呼ばれる。
清和源氏興隆の礎を築いた源満仲からその曾孫・源義家までの五公(源満仲・源頼光・源頼信・源頼義・源義家)を祀る。
天禄元年(970年)に清和源氏の祖・摂津守源満仲が住吉大神の御神託を受けて当地に居館を構え、満仲の末子源賢を開山として天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧寺(通称多田院)が建立された。その際に円融天皇より「此の城をもって禁裏守護職武門の棟梁万代の居城たるべし」との勅諚を賜ったとされる。このことから当地は清和源氏発祥の地と呼ばれている。以後、満仲は自らの武士団(後の多田院御家人)を率いてその館と多田院を中心に多田荘の開発に勤しんだ。
以後は清和源氏の祖廟とされたが、この地を代々相続した多田源氏の没落と続く源氏将軍家の断絶により次第に衰微していった。鎌倉時代中期に鎌倉幕府執権・北条泰時が多田荘の地頭となると、以後は得宗家によって地頭職が相伝された。
室町時代に入ると清和源氏である将軍足利尊氏が崇敬し、以後室町幕府の保護を受ける。延文3年(1358年)には2代将軍足利義詮によって尊氏の分骨が多田院に納められ、これ以降歴代足利将軍の分骨が埋葬されることとなった。
戦国時代の天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢による兵火によって社殿が焼失し以後荒廃したが、江戸時代に入り姫路藩主榊原忠次、老中・小田原藩主稲葉正則や多田院御家人の子孫などによって社殿の寄進や修復が行われた。なかでも清和源氏を称した徳川将軍家による崇敬は大きく、寛文5年(1665年)に4代将軍徳川家綱によって寺領500石の寄進がなされ、寛文7年(1667年)には本殿、拝殿、随神門などが再建された。そして分骨を納めた足利将軍家を倣い歴代徳川将軍の位牌が代々本殿に納められることとなった。さらに元禄8年(1695年)には5代将軍徳川綱吉による社殿の修復がなされ、その徳川家との強い結び付きから「西日光」とも称された。
そして満仲に「正一位多田権現」の神号が贈られると次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていった。
明治時代になると政府による神仏分離令により、仏教寺院であった多田院は従来の源満仲・源頼光に源頼信・源頼義・源義家の河内源氏三代を合わせた五公を祀る神社に移行した。その際、南大門にあった金剛力士像が1871年(明治4年)に満願寺に、境内の鐘楼は奈良県・西大寺に移されるなどしている。
大鳥居・wikipedia-photo
境内入り口・wikipedia-photo
南大門(兵庫県指定有形文化財) – 延宝4年(1676年)再建。旧多田院の仁王門。桁行三間・梁間二間の切妻造で、屋根は本瓦葺。wikipedia-photo
随神門(重要文化財) – 寛文7年(1667年)に徳川家綱によって再建。八脚門。三間一戸の八脚門。切妻造で、屋根は本瓦葺。wikipedia-photo
拝殿(重要文化財) – 寛文7年(1667年)に徳川家綱によって再建。桁行七間・梁間三間の入母屋造で、正面・背面に向拝三間を付し、屋根は檜皮葺。wikipedia-photo
本殿(重要文化財) – 寛文7年(1667年)に徳川家綱によって再建。桁行五間・梁間三間の入母屋造で、向拝三間を付し、屋根は檜皮葺。wikipedia-photo
御神廟 – 源満仲、源頼光の墳墓。さらにこれを取り囲むように足利尊氏以下、歴代足利将軍の分骨が埋葬される。wikipedia-photo
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多田神社境内図(「オープンストリートマップ」より。)
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「7巻33・多田院神廟」
多田神社南大門前のカメラです。
多田神社神門内のカメラです。
多田神社拝殿のカメラです。