マーカーは多田鼓ヶ瀧です。
多田鼓ヶ瀧
[「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「7巻38・多田鼓ヶ瀧」
「7巻39・鼓ヶ瀧」
『鼓ヶ滝(つつみがたき) 多田川の下流多田院より八丁ばかり南にあり。
左右岩石塁々としてその川幅三間ばかり、急流にして珠を飛ばすがごとく自浪??たり。
いにしへは飛泉十丈余落つる。多田院造営の時この岩石を斫りて用石とす。または洪水の難を除かん為なり。
これより水音絶えて鼓ヶ滝は名のみにして、初夏の頃は年魚ここに聚る事数万に逮ぶ。
近里の漁者手網をもってこれを汲み取る事数斛なり。いはゆる山州宇治川の鮎汲に比せん。』
下滝公園西行歌碑前のカメラです。
『音にきく 鼓が瀧をうちみれバ 川邊ニ きくや しら百合の 花』
12世紀の歌人・西行が 川辺郡と呼ばれたこの地を訪れ、鼓が滝の美しい風景を詠んだのが、夢枕に土地の古老が現れ、その教えを受けて、この歌をのこしたと伝えられる。 (「鼓ヶ滝 – 摂津名所図会」より)]
[西行鼓ヶ滝
西行鼓ヶ滝(さいぎょうつつみがたき)は、講談及び古典落語の演目。別題に西行や鼓ヶ滝。原話は能楽『鼓滝』であり、謡曲でも演じられる。
若き日の西行が、歌の修業として日本各地を旅する中で、歌の名所と謳われる摂津の鼓ヶ滝に来た。そしてその光景を「伝え聞く 鼓ヶ滝に 来て見れば 沢辺に咲きし たんぽぽの花」と歌に詠み、その出来に一人で悦に入る。気づけば日は落ちてあたりは暗くなり、帰路の途中で見つけた粗末な民家に一晩の宿を頼む。
そこには翁、婆、若い孫娘の3人が住んでおり、西行を快く迎え入れる。3人にここに来た理由などを訪ねられて西行は歌の修業と述べ、そして先ほど作ったばかりの自信作を詠み上げる。すると翁が大変失礼ながらと断ったうえで、「鼓とは音のするものである」から、「伝え聞く」ではなく「音に聞く」の方が良いという。自信作をその辺の老爺に添削され内心で憤る西行であったが、確かに指摘は妥当で歌は良くなったと感心する。すると今度は婆も同様に声を掛け、「鼓とは打つものである」から、「来て見れば」ではなく「うち見れば」が良いという。これも確かにその通りだと西行は認めざるを得ない。そして予想通り孫娘も声を掛け、「鼓とは皮を張るものである」から「沢辺に咲きし」ではなく「川辺に咲きし」の方が良いという。
結局、西行の自信作であった歌は「音に聞く 鼓ヶ滝を うち見れば 川辺に咲きし たんぽぽの花」とほぼ全体を添削されることとなり、西行は自分の修行の足りなさを実感する。そこで、ふと気づくと、あたりはまだ昼で、宿も何もない。西行は滝のほとりで夢を見ていたことに気づくと同時に、あの3人は和歌三神(住吉明神、人丸明神、玉津島明神)の化身であり、慢心した自分を戒めるために現れたのだ、と考える。
こうして初心に帰った西行はやがて日本一の歌人となった、で締めくくられる。
落語の場合は、神に対し無礼を働いたのではと罰(バチ)を恐れる西行に、一部始終を聞いた木こりが「恐れることはない。この滝は鼓でありバチ(撥)は当たらない」という地口落ちになる。
作品の舞台
鼓ヶ滝は兵庫県神戸市や熊本県など各地に実在する滝だが、この落語作品の舞台となっている「鼓ヶ滝」は、古来名所として知られ、摂津名所図会の「巻之七・豊嶋郡 河邊郡 上」にも登場している「多田 鼓ヶ滝」とされる。多田村は現在の川西市で、鼓ヶ滝は同市鼓が滝町にかつて存在したとされるが、現存しない。現在の能勢電鉄猪名川橋梁付近にある岩がその名残だとされる。 (wikipedia・西行鼓ヶ滝より)]
カメラ位置は猪名川(多田川)銀橋で南方向の渓谷に多田鼓ヶ瀧があったと思われ、現状でも水量が多ければ滝の様相を表すと思われます。