大和川分水築留掛かり

マーカーは築留二番樋です。

大和川分水築留掛かり
[「大和川分水築留(つきどめ)掛(か)かり」は、築留堤防に設けられた3基の取水(しゅすい)樋(ひ)によって、新大和川から取水していました。東から一番樋、二番樋、三番樋と名付けられています。樋とは、堤防にトンネルのようなものを設けて水を取り入れる装置のことです。
 一番樋は宝永元年(1704)に築留堤防の構築とともに設けられています。築留よりも上流は、二本の堤防が平行する二重堤となっており、二本の堤防の間に水路が設けられていました。この水源は上流の高井田村にあった古白坂樋、新白坂樋で、これに築留から約500m南の川中の堤防に設けた八尺樋からの新大和川の水を加え、それを一番樋から取り込んでいました。現在はこれらの樋は廃止され、一番樋も使用されていません。
 二番樋は付け替えの翌年、宝永2年(1705)に築留堤防を切り開いて設けられました。樋を設置するために、いったん完成した堤防の一部を掘り下げ、木製の板を組み合わせた樋を設置し、再び堤防を築きなおしています。二番樋はその後何度か補修され、明治21年(1888)に設けられたレンガ積みの樋が今も使用されています。
 三番樋は二番樋の200m余り西に、宝永2年に二番樋に続いて設けられ、やはり現在も使用されています。当初は3基とも樋の内部の大きさが3尺5寸(106cm)四方でしたが、その後一番樋は4尺5寸(136cm)四方、二番樋は4尺(121cm)四方に拡大されています。
 一・二番樋の水と三番樋の水は、500mほど北へ流れて合流しています。ここを落合といい、現在はたくさんの鯉をみることができます。ここから先は幅10間(18m)の十間井路(じゅっけんいじ)と呼ばれました。その先の二俣で、西用水井路(長瀬川)と東用水井路(玉串川)に分かれています。この水は、宝永2年(1705)で43,672石、正徳2年(1712)で49,582石の村々の田畑を潤しました。江戸時代としては、非常に大規模な用水でした。 (安村)  (「【コラム】世界かんがい施設遺産 長瀬川と玉串川 (4)「大和川 …」より)]

大和川分水築留掛かり – 大阪府

河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画 – 早稲田大学」 – 「大和川築留(4巻13)

[絵図は大和川流路変更後の絵図で右ページで大和川と石川が合流し、左ページ「かし原(柏原)」記述の右が二番樋になると思います。]

いかのぼりといふ又多古といふ(4巻10)

[三賀の間児童紙鳶(しえん)を造り風に柔じてこれを揚げるこれをいかのぼりといふ又多古といふ]

[江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行り、江戸の武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やすほどだった。競技用の凧(ケンカ凧)には、 相手の凧の糸を切るためにガラスの粉を松脂などで糸にひいたり(長崎のビードロ引き)、刃を仕込んだ雁木を付けたりもした。
このような状況が世相に混乱を招き官憲の介入に及び、当時は一般的に「イカ揚げ」として親しまれていた娯楽は禁止されることになった。したたかな庶民は同じ遊びを「イカ揚げ」ではなく「タコ揚げ」だと屁理屈で逃げ道を作り、官憲も厳しくは追及しなかった。このため、以後「タコ揚げ」として周知されるようになったという。  (wikipedia・より)]

二番樋前のカメラで、カメラ北西方向が大和川分水築留掛かりを管理する築留土地改良区です。