マーカーは若宮八幡神社です。
若宮八幡神社
[社伝によると、白鳳四年、天武天皇が宇佐八幡の御神託により、この粟津に行幸になったところ、紫の雲がたち、金色の鳩が飛来して、粟津の森の大木に止った。その処に当社の造営を勅諚され、仁徳天皇の御木像を御下賜になった。次いでこの浦(湖辺)上下八町の間、殺生を禁じられた。漁夫等は、これを恐れて特別の浦、別浦と云い、後に別保と呼び、現在も地名として残っている。
翌年、当社に於て「放生会」が行なわれ以来毎年斎行されている。当社の竣工は、勅諚から四年後の白鳳八年で、九州の宇美八幡、宇佐八幡に次ぐ古い八幡宮であり、当初は粟津の森八幡宮、後に若宮八幡宮、更に後に、若宮八幡神社となった。
当社は、延喜十七年、落雷のため全焼、更に寿永三年、木曽義仲の粟津の合戦で全焼したが、建仁二年、源頼朝が上洛の時、当社を再興し、翌年社殿を再建した。
又当社を、歴代の膳所城主が崇敬し、社領寄進の記録がある。
千三百年の間、毎年行なわれて来た、放生会祭には、近年では、琵琶湖に蜆流しと、人形流しの厄除祭を斎行している。
当社には、現在も宮座が残っており、毎年元旦、例祭、放生会祭、の当日四季の花をさしそえた、御供を、本殿をはじめ、境内の皇大神宮他摂社、末社にお供えしている。
明治十四年村社に、昭和五年郷社に加列。 (「若宮八幡神社 – 神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東海道絵図」 – 「東海道絵図. 巻第十 土山ヨリ京マデ」(コマ番号20/26)
地図右方向にスクロールすると、東海道直角角上に「若宮」と記述されています。
カメラ北方向が若宮八幡神社参道です。