西教寺

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西教寺
[西教寺(さいきょうじ)は、滋賀県大津市坂本にある仏教寺院。天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山である。山号は戒光山、本尊阿弥陀如来。開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もあるが判然とせず、室町時代中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛が入寺してから栄えた。寺名は詳しくは兼法勝西教寺(けんほっしょうさいきょうじ)という。
比叡山東麓の大津市坂本地区の北方にあり、比叡山三塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置する。付近には比叡山の鎮守である日吉大社などがある。西教寺は、天台宗総本山の延暦寺、天台寺門宗総本山の園城寺(三井寺)に比べ知名度は高いと言えないが、天台系仏教の一派である天台真盛宗の総本山として、400か寺以上の末寺を有する。
西教寺が歴史の表面に現れてくるのは、前述のように室町時代の文明18年(1486年)、中興の祖である真盛が入寺してからのことである。真盛は嘉吉3年(1443年)、伊勢国一志郡に生まれ、地元の寺に入って出家した後、19歳で比叡山に上り、その後20年以上も山を下りることなく修行と学業に専念した。比叡山において真盛は徐々に頭角を現わし、僧階は権大僧都(ごんだいそうず)に至るが、文明15年(1483年)、名利を捨てて比叡山のもっとも奥に位置する黒谷青龍寺に隠棲した。このことは真盛の母の死がきっかけだったともいう。それから2年後の文明17年(1485年)、真盛はようやく山を下り、その年の12月、宮中で源信の『往生要集』を講義した。真盛は説法の名手として当時評判が高く、宮中での講義には多くの皇族、公卿らが臨席したことが、当時の公卿の日記などに見える。真盛は晩年の10年を西教寺の復興と布教に努め、明応4年(1495年)、旅先の伊賀三重県)で死去した。53歳であった。
天台系の本山寺院のうち、延暦寺や園城寺(三井寺)が密教色が濃いのに対し、西教寺は阿弥陀如来を本尊とし、念仏(阿弥陀如来の名を称えること)を重視するなど、浄土教的色彩が濃いが、これは中興の祖である真盛の思想によるところが大きい。真盛によって始められた天台真盛宗の宗風は、「戒称二門」「円戒念仏」等と表現される。「戒称」の「戒」は戒律、「称」は「称名念仏」、つまり阿弥陀仏の名を一心に称えることを言う。「円戒」は「円頓戒」の略であり(「円」は「円満な」すなわち「完全な」の意、「頓」は「速い」の意)、天台宗の僧侶や信者が守るべき戒律(正しい生活を送るために守るべき規範)を指す。具体的には、「梵網経」に説かれる十重四十八軽戒という、10の重い戒と48の軽い戒のすべてを守ることである。つまり、真盛の思想は、「戒律」と「念仏」の両方を重視する点に特色があり、この点が、同じ念仏でも法然の唱えた「専修念仏」、親鸞の唱えた「悪人正機」の教えとは異なる点である。
元亀2年(1571年)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失した。本堂は焼失の3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、甲賀郡(現・滋賀県甲賀市あたり)の浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊とした。この阿弥陀如来像は現存し重要文化財に指定されているが、この像がもとあった浄福寺については詳細不明である。また、現存する本堂はその後改築されたもので、江戸時代中期の元文4年(1739年)の上棟である。
上記の信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔が立っている。
天正18年(1590年)、後陽成天皇綸旨を発し、応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた京都・岡崎の法勝寺をその末寺である西教寺に合併させることとした。法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、法勝寺伝来の仏像、仏具等も西教寺に移された。寺の別名を「兼法勝西教寺」というのはここから来ている。現在、西教寺客殿の仏間に安置される、秘仏・薬師如来坐像は、法勝寺の遺物とされている。
西教寺は、天台宗の中にあって念仏と戒律を重視する独自の一派をなしていたが、近世には他の天台系寺院同様、日光輪王寺の支配下にあった。近代に入って宗派独立の動きが強まり、明治11年(1878年)から天台宗真盛派を名乗るようになる。昭和16年(1941年)には国策によって天台宗天台宗寺門派、天台宗真盛派の三派は合同したが、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)三派は再び分離し、天台宗真盛派は天台真盛宗として独立した。

総門・wikipedia-photo

宗祖大師殿唐門(勅使門の西方向)・wikipedia-photo

宗祖大師殿・wikipedia-photo

勅使門(参道突き当り、その右方向に通用門)・wikipedia-photo

本堂・wikipedia-photo

「客殿(左)、本堂(右)、書院(奥)」・wikipedia-photo

中心伽藍の間の枯山水・wikipedia-photo

中心伽藍を結ぶ回廊・wikipedia-photo

客殿庭園・wikipedia-photo

書院庭園・wikipedia-photo

真盛上人廟(本堂西方向にある。)・wikipedia-photo

  (wikipedia・西教寺より)]

[伏見城から移されたと伝える建造物は全国にあります。特に滋賀県大津市西教寺(さいきょうじ)の客殿と広島県福山市福山城の伏見櫓(ふしみやぐら)は,伏見城の遺構として確実視されています。
 中でも西教寺客殿の遺構には棟札があり,慶長3(1598)年に大谷刑部(おおたにぎょうぶ)母と山中山城守夫人の本願によって建立された旨が確認でき,客殿や柱,長押に不自然な裂け目が入っていることから,慶長大地震によって倒壊した指月の伏見城客殿であったと考えられています。  (「都市史20 伏見城 – 京都市」より)]

西教寺ホームページ

西教寺境内図(「オープンストリートマップ」より。)

   
東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]」・「東坂本 西教寺 来迎寺」(左ページ上方向に西教寺が描かれています。)

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西教寺総門前のストリートビューです。

西教寺勅使門前のストリートビューで、カメラ南方向が宗祖大師殿唐門になります。

西教寺本堂前のストリートビューで、カメラ西方向に明智光秀一族の墓があります。

カメラ北方向が西教寺 客殿で、門前右に客殿の案内板があります。(Google Map 画像)

真盛上人廟参道前のカメラで、カメラ北北東方向が西教寺 客殿です。

カメラ南南東方向が鐘楼で、カメラ北方向が庫裏玄関になります。