天下茶屋跡

マーカーは天下茶屋史跡公園です。

天下茶屋跡
[天下茶屋は豊臣秀吉が堺や住吉への途中立ち寄り、茶の湯を楽しんたところで、その名も殿下茶屋がなまったものという。この茶屋には名水のほまれ高い泉があり、秀吉はこれに「恵の水」と名づけた。その跡は芽木(めぎ)家とともに邸内に保存されていたが、戦災で焼失した。
 なお、道(紀州街道)をへだてた東側に紹鴎森天満宮があるが、ここは千利休の師、武野紹鴎(たけのじょうおう)が隠棲したところである。  (「8 .天下茶屋(てんがちゃや)跡 – 大阪市」より)]

[天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋の名に由来する。
この地は、古代には「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の茂った鄙びた土地だった。そこに湧く水の良さに着目して茶室を建て、森を切り開いて道をつけたのが、千利休の師に当たる武野紹鷗だった。以来この地は「紹鷗の森」とも呼ばれるようになった。
天正年間 (1573–92) には楠木正行の十世孫であるという初代芽木小兵衛光立がこの森の西側を開き、ここに茶屋を出した。そして三代目芽木小兵衛昌立のとき、住吉神社を参拝した関白・豊臣秀吉がこの地に立寄り、この芽木家の茶店から清泉を汲んでお伴の千利休に茶を点てさせたところ、味の良さに感激。そこでこの泉に「恵の水」の銘を、芽木家に玄米年三十俵の朱印を与えた。そこから関白殿下の「殿下茶屋」、天下人の「天下茶屋」などの名が知られるようになったという。
慶長十四年三月三日(1609年4月7日)には、父・林玄蕃を闇討ちにした当麻三郎右衛門を、玄蕃の遺児・重次郎と源三郎の兄弟が9年間におよぶ苦難の末に、この地で見事に討ち取っている。この「天下茶屋の仇討」は当時代表的な仇討ち事件として講談歌舞伎などに取り上げられ、その結果「天下茶屋」の名が日本中に知れ渡ることになった。  (wikipedia・天下茶屋より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「1巻21・天下茶屋邑」、「1巻22・天下茶屋村是斎薬店

[天下茶屋は豊臣秀吉が住吉詣の際に休憩し、茶の湯を楽しんだ茶屋があったことから名づけられた地名と伝えられます。
 紀州街道に面してその茶屋の隣に、「是斎(ぜさい)」という薬屋がありました。津田宗本という人が寛永年中(1624~44)に開いた店で、シーボルトなどを通じて西洋にも紹介された銘薬で、胃痛・頭痛などに効能がある漢方の「和中散(わちゅうさん)」で評判でした。その次男是斎が近江の国梅木(うめのき)に開いた店の方が繁盛し、是斎と言えば和中散をさすほど有名になったため、本家の天下茶屋店も是斎の看板を掲げるようになったのだといわれます。
天下茶屋ぜさいは、大変有名であったため、いろいろな絵が描かれています。俳諧師・秋里籬島(あきさと りとう)が編集を担当し、絵師・竹原春朝斎(たけはら しゅんちょうさい)が絵を担当した摂津国の通俗地誌であり観光案内書でもあった「摂津名所図会」にも「天下茶屋村是斎薬店」があります。本文には「薬店は数十間を闢(ひら)きて、床椅(しょうぎ)数脚をならべ、往来の人を憩はし、薬を湯に立て施す事、四時間断なし」と解説があります。   (「今週の今昔館(123) 天下茶屋ぜさい 20180807」より)]

里の家芳瀧(中井芳滝)/画 天下茶やぜさい(wikipedia-photo)

カメラ北方向が天下茶屋跡の天下茶屋史跡公園です。