天川郷

マーカーは川合の吊橋です。

天川郷
[原始遺跡はほとんど発見されておらず、古くは人々が定住するにはいたらなかったが、そんな深山幽谷の地であったことが修行者たちの「行場」を開くきっかけとなり、7世紀に役行者小角により金峰山大峯山が開山されて以来は人々の定住を促し山岳修験道の根本道場として栄えた。奈良時代には遣唐使が持ち帰った興福寺所蔵の「華原磬」の台座の石として白石(結晶質石灰岩)を切り出し運搬した記録が、正倉院の文書の中に残されており公式的な文書に天川村が登場する最初といえる。 平安時代には宇多天皇藤原道長などをはじめ多くの人々が大峯山へ御岳詣をしている。大峯山で修行した弘法大師空海はこの地を経て平原の幽地である高野に至ったという記録もあり、伝承では籠り道場となった場所が籠山(こもりやま)、庵を結んだ場所が庵住(いおすみ)という地名になったとされている。
大峰連山の一つ弥山に祠られた弥山大神の歴史も古く天河大弁財天社の創建とその隆盛とともに聖域化され、これらに前後して「天ノ川」という河川名が生まれたと考えられている。村は天河神社の信仰を核に繁栄し南朝による課役免除の恩典もあり経済的にも安定していた。また村は弓竹の矢の産地としても知られ南朝方、織田豊臣両氏にも矢竹を上納している。江戸時代には天川23ヶ村は天領とされ年貢の他に矢竹を上納し幕府の役人である代官によって統治されていた。  (wikipedia・天川村より)]

[天川郷では南朝以降江戸時代が終わるまで、矢箆竹(やのうちく)と言われる矢竹を献上品として納めてきました。この矢竹は、大峯の山中にたくさん自生する「スズ竹」でつくられるもので、天川郷は上質な矢箆竹の産地として名を轟かせていたそうです。
南朝方の将兵に愛用された矢竹は、当時それを献上した天川郷民の素朴な忠誠心の表れであり、前線兵士の士気を高めるのに役立ったはずです。天川郷民がこぞって南朝守護に肩入れをしたのが矢箆竹献上だったといえます。
戦国時代になると矢の需要が高まり、矢箆竹の献上は織田家・豊臣家へと受け継がれ、徳川政権が確立されると同時に天川郷は天領に組み入れられ、初代代官小野宗左衛門によって年貢として毎年2200本の矢竹の上納が義務づけられ、幕末まで続きました。庄屋であった畠中藤左ヱ門が毎年御用の荷を仕立てて、大阪城まで運びました。寛政年間の「矢箆竹御用方諸事控」に、その様子が記録されています。  (「天の国:天川村の歴史と宗教」より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「矢箆竹」(7-6)

天川郷里の生活」(7-6)

川合の吊橋からの天ノ川