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天河大弁財天社
[天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ、天河神社)は、奈良県吉野郡天川村坪内にある神社。旧社格は郷社。宗教法人名は天河神社であり、神社庁傘下である。
室町期の僧英俊による多聞院日記に、「天川開山ハ役行者」と記述がある。天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる。弘法大師空海が高野山の開山に先立って3年間大峯山で修行し、最大の行場が天河神社であった。弘法大師にまつわる遺品が奉納されている。
社殿の造営はは天武朝で、壬申の乱の際、天武天皇が戦勝を祈願、勝利の後寄進されたという。また天河神社の神殿の下には古代の磐座があり、社伝によれば神武天皇がここでヒノモトの言霊を賜ったという。
天河神社が鎮座する坪ノ内は、南朝の皇居が47年間置かれた土地といわれており、そのため南朝の崇敬が特に篤かった。
当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命と改められた。 『吉野町史』によれば「吉野総社」として列せられていた歴史があり、「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)や「大峰本宮」として格式の高い社として認識されていた。
参道・wikipedia-photo
参道および本殿・wikipedia-photo
天河大辯財天社拝所・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、天河大弁財天社の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・天河大弁財天社より)]
「天正14年(1586)、慶安3年(1650)、延享4年(1747)に火災、明和5年(1768)の火災では僅かに観音堂・廊下・表鳥居のみを残し全焼、その後は再興されなかったと推定される。
明治の神仏分離で天河神社と改号。
来迎院は唯一の神宮寺として現存する。真言宗醍醐派。現堂舎は明治11年再建。 (「[mixi]天河大弁財天社への参詣 – 天と地の結び・橘流写経の集い」より)]
「天河大弁財天社ホームページ」 – 「境内のご案内」
「大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「天ノ河黒木御所在原業平墓」(7-25)
[図会右ページ中段に「後醍醐天皇御坊所」と記述され、その左に琵琶山白飯寺が描かれています。「大和名所図会」の本文「琵琶山白飯寺」(7-26)に「琵琶山白飯寺」は「天川坪内村にあり・・・護良親王寓居の所を御所坊といふ則来迎院なり。」と記述されています。]
「大峯天河社」(7-24)
[「大和名所図会」の出版年は寛政3(1791)年で明和5年(1768)年の火災後、再建されていないようですので、この図会は火災前の資料を基に描かれたのではないかと思います。]
「大峰本宮 天河大辨財天社 – Google Map 画像リンク」
天河大弁財天社参道前のカメラです。
天河大弁財天社参道石段前のカメラです。