内山永久寺跡

マーカーは内山永久寺跡本堂池です。

内山永久寺
[内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)は奈良県天理市杣之内町にかつて存在した寺院である。興福寺との関係が深く、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院であったが、廃仏毀釈の被害により明治時代初期に廃寺となった。寺跡は石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあり、かつての浄土式庭園の跡である池が残る。
三方を山に囲まれていることから内山といい、院号を金剛乗院といった。本尊阿弥陀如来
『永久寺置文』(東京国立博物館蔵)、菅家本『諸寺縁起集』によれば、永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇願により興福寺大乗院第2世院主の頼実が創建し、第3世尋範に引き継がれて堂宇の整備が進められた。『大乗院寺社雑事記康正3年(1457年)4月29日条では頼実と尋範の2人を本願としており、頼実の営んだ山荘が尋範に引き継がれたものとみられる。尋範は太政大臣藤原師実の子で、大乗院3世、興福寺別当を務めた。このため、当初より興福寺大乗院の末寺としての性格を備え、また本地垂迹説の流行と共に石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようにもなり、興福寺を支配していた2大院家の一方である大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇った。
『永久寺置文』によれば、保延2年(1136年)に真言堂、同3年に八角多宝塔が建立され、その他、吉祥堂、観音堂、常存院、御影堂、経蔵、鐘楼、温室(浴室)、四所明神社、玉賀喜社など多数の堂宇が存在した。
太平記』によると延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと伝えられ、「萱御所跡」という旧跡が残された。
天正13年(1585年)の時点で、56の坊・院が存在した。近世の『大和名所図会』所収の境内図によれば、池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの院家、子院が建ち並んでいた。文禄4年(1595年)、豊臣秀吉は当寺に971石の寺領を与え、近世を通じてこの寺領が維持された。なお、近世には院家の上乗院が寺主となって興福寺の支配下から離れ、真言宗寺院となっている。大和国では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされた。
明治に入って廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収され、経営基盤を奪われた当寺は廃寺となって僧侶は還俗し、石上神宮の神官となった。更に、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく徹底した破壊と略取の対象となった。この際流出した仏像・仏画・経典等はいずれも製作当時の工芸技術の精華と言うべき優品揃いであったことが知られている。海外に流出した宝物の内、ベルリン民俗学博物館が購入した真然筆と伝えられる真言八祖像などは第二次世界大戦末期のベルリン市街戦で烏有に帰した。しかし、日本国内に残存した宝物の大半が、現在重要文化財国宝指定を受けていることは、当寺の得ていた富がいかに巨大であったかを物語るものである。
現在では当寺の敷地の大半は農地となり、本堂池と萱御所跡の碑が往時をしのぶだけである。  (wikipedia・内山永久寺より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「永久寺門前」(4-14)、

内山永久寺」(4-13)、

[天理市内で国道25号を東進していくと、天理トンネルの手前に静かに水をたたえる池があります。かつて隆盛した内山永久寺の浄土式回遊庭園にあった池だと言われています。内山永久寺は、永久年間(1113年~1118年)建立の寺院で、本尊は阿弥陀如来。挿図には、浄土式回遊庭園、本堂、観音堂、八角多宝塔など、多くの堂塔が建ち並んでいた様子が描かれています。右奥と左には民家も描かれており、門前のにぎわいが伝わってくるようです。本文には、鳥羽院(鳥羽天皇)の勅願によって、「真言伝法の人なり」とする亮慧が開基したとあり、この地は五鈷の形の山に囲まれていることから「内山」と呼ばれたこと、また、永久年中に草創されたため永久寺と名づけられたことが記されています。そして、「本堂には阿弥陀仏を本尊とす。奥院の不動明王は、日本三體の其一なり。観音堂、千体仏堂、二層塔、大師堂、真言堂には大日如来を安ず。(中略)其外諸堂魏々として、子院四十七坊ありとなん。」と示され、壮大な伽藍を擁する大寺だったことがわかります。静寂に包まれた現在の様子からは想像しづらいかもしれませんが、往時は、奈良では東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ規模の寺院だったようです。元弘の乱(1331年)時には後醍醐天皇やその皇子である大塔宮(護良親王)ら一行が、鎌倉幕府勢から逃れて、内山一帯に隠れ籠ったといいます。その後、寺勢は衰え、明治時代の廃仏毀釈で廃寺にされました。池の周囲には毎春、桜が池を覆いつくさんばかりに咲き誇り、花見客や写真愛好家たちが訪れる桜必見のスポットになっています。挿図に描かれている、池の内側に浮かぶ小島は健在です。廃寺以前、松尾芭蕉も内山永久寺を訪れ、「うち山や とざましらずの 花ざかり」と、見事な満開の桜に感動した様子を詠み、その歌碑が池のほとりに建てられています。現地現存している内山永久寺の名残は、池のみですが、北へ約1㎞のところに鎮座する石上神宮に、内山永久寺にあった鎮守社「住吉社」の拝殿が移築されています。石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿がそれで、国宝に指定されています。  (「『大和名所図会』今昔めぐり ⑱内山永久寺 | 奈良 観光」より)]

内山永久寺跡付近と思われる位置のカメラです。

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