一乗院跡

マーカーは一乗院跡(奈良地方裁判所)です。

一乗院門跡
[興福寺塔頭の中でも門跡が入る院家の一つで、大乗院とともに門主は興福寺別当をつとめた(延暦寺における青蓮院に該当する)。
はじめは近衛家の子弟が門跡をつとめていたが、江戸時代初期以降は皇族が門跡となったため、門主は南都一乗院宮とよばれた。皇子も入寺する格式の高い門跡寺院として知られていた。また、京都御所の隣にも御里房(邸宅)があり、こちらは南都一乗院宮御里房とよばれた。中世に一乗院の属する南都の興福寺は、僧兵衆徒(武士)も従え大和国の守護をつとめた一大武装勢力であり、比叡山の延暦寺と並び称され「南都北嶺」として恐れられた。室町幕府最後の将軍足利義昭(近衛尚通外孫)が還俗前に門主をしていた事でも知られている。
有名な門跡寺院であったが、廃仏毀釈により廃絶したため現在は存在せず(建物の一部は他の寺院に移築されている)、明治期に奈良県庁となり、その後奈良地方裁判所として使用されている。1964年に宸殿が唐招提寺に移築され、国の重要文化財として保存されている。  (wikipedia・一乗院より)]

[今の、裁判所のところには、大乗院と並ぶ興福寺の二大門跡、興福寺一乗院が有りました。
時は、戦国時代永禄8年(1565)5月16日深夜、松永三好軍が、京都二条の室町御所を包囲。第13代将軍足利義輝を殺害しました。足利の武将であった勝竜寺城細川藤孝は、この凶報を聞くや、奈良一乗院にいる義輝の弟「覚慶」を救うため、直ちに奈良に走りました。既に松永の手は回っていたものの、闇に紛れて一乗院の塀を乗り越え、覚慶を救い出し、近江へ。松永軍の本隊は翌朝、京都から討って返し一乗院に侵入。その時すでに、一乗院はもぬけの殻だったのです。
間一髪、藤孝に救出された「覚慶」は、第15代将軍「足利義昭」となり、戦国のドラマを彩る存在になりました。
一乗院の寝殿は唐招提寺に移築されています。また、最後まであった北門は、大安寺の南門として移築されました。  (「奈良女子大辺り ~奈良きたまちの観光・歴史探訪~」より)]

カメラ北方向が一乗院跡(奈良地方裁判所)です。

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