中川政七商店 本店

マーカーは中川政七商店 本店です。

中川政七商店
[奈良晒の起源は、鎌倉時代にまでさかのぼり南都寺院の袈裟として使われていたと記録されています。しかし、多くの文献に登場するようになるのは天正年間(1573~1591)に清須美源四郎(きよすみげんしろう)が晒法の改良に成功してからになります。慶長年間(1596~1614)には徳川幕府から「南都改」の朱印を受け御用品指定され、産業として栄えたようです。(「南都曝」の朱印が押された徳川家康が使ったとされる白麻浴衣が徳川美術館に現存しています。)
当時は主に武士の、僧侶の法衣に用いられていました。また千利休に用いられたことから、茶巾としての需要もあったようです。
17世紀後半から18世紀前半にかけて奈良晒は隆盛を極め、生産量は40万疋にも達したと言われています。当時の隆盛は井原西鶴の「世間胸算用」にも登場するほどです。また宝暦4年(1754)「日本山海名物図会」には「麻の最上は南都なり 近国よりその品種々出ずれども 染めて色よく 着て身にまとわず 汗をはじく故に 世に奈良晒とて重宝 するなり」 と記され、その評判ぶりがうかがえます。
その隆盛の中、初代中屋喜兵衛も享保年間(1716~1735)以前には奈良晒の商いをはじめていたようです。
しかし、江戸後期に入り越後近江といった他産地の台頭により生産量は往時の10分の1ほどになり、明治維新により武士が消滅したことで最大の需要源を失い、奈良晒の衰退は決定的なものとなりました。
そんな中、9代・政七は当時の品質を守り続け、皇室御用達の栄誉を受けています。(風呂あがりの汗取りや産着として御使用いただいたそうです。)
10代・政七は途切れつつあった奈良晒製造の復興に尽力し、月ヶ瀬・田原・福住に作業場を木津川に晒工場を建てています。
11代・巖吉は高度成長期の日本で奈良晒の製造が難しくなる中、機械化するか生産拠点を海外に移すかという難しい選択を迫られましたが、「手」でつくることにこだわり生産拠点を韓国、そして中国へと移し、昔ながらの製法を守りました。
12代・巖雄は茶巾を通じてなじみのあった、茶道具全般を扱う問屋に事業を拡大します。
また用途の限られていた手紡ぎの手織りの麻を日常生活で感じてもらおうと「遊 中川」を立ち上げました。
13代・淳は「遊 中川」の良さを「正しく伝える」ためには自分たちで直接お客様に届けなくてはならないという考えのもと、直営店出店を加速させSPA業態を確立しました。
また「粋更kisara」「中川政七商店」という新しいブランドの立ち上げ、業界特化型のコンサルティング事業など「日本の伝統工芸を元気にする」べく業界の常識にとらわれない新しい展開を見せています。  (旧ホームページ「中川政七商店の歴史」より)]

中川政七商店ホームページ」 – 「中川政七商店の成り立ち

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「ならのさらし場」(2-16)

日本山海名物図会」(巻の四 – 13ページ・奈良晒)

遊 中川 本店 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が中川政七商店 本店(遊 中川)です。

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