奈良代官所跡

マーカーは奈良代官所跡です。

奈良代官所跡
[西笹鉾町で、今は、マンションや天理教(旧警察学校)の塀が続いている一画が、奈良代官所がおかれていたところです。大和国にある江戸幕府の領地(天領)の支配をうけもち、年貢の徴収や吉野地方の寺社に関わる事柄の裁判にあたりました。
代官所は、寛文4年(1664)から元文2年(1737)まで設置されていました。 明治にはいって、監獄所がおかれていましたが、明治41年に今の少年刑務所に移転したあとは、草地になっていました。
今では想像もできませんが、昭和8年には、奈良市制35周年を記念する観光産業博覧会が、この場所をメイン会場として数多くのパビリオンが建ち並び、そのほか県立美術館付近を第2会場、京終駅前を第3会場として開催されました。 会期中には、当時開渠であった吉城川が氾濫し、売店が流出する騒ぎもおこっています。
その後昭和16年から42年まで県警察学校が置かれましたが、今も重厚な造りの本館や道場はそのまま保存され、天理教会として利用されています。  (「奈良女子大辺り ~奈良きたまちの観光・歴史探訪~」より)]

[寛文四年(一六六四)四月、奈良代官が新設された。前年の十月に奈良奉行を辞した中坊時祐が代官を勤めていた幕領支配を引き継ぐためであり、五味藤九郎豊旨が初代の代官に任命されたのである。
代官所屋敷には、中御門町西にあった中坊家中屋敷があてられた。この屋敷は、東西六八間(123.6m)・南北五九間(107.3m)・一町三反歩余におよぶ広大なものであった。
この時期の奈良代官の設置は、寛文年間(一六六一~七二)の上方支配体制の再編成の一環として行なわれたものであり、代官を兼ねた奈良奉行から幕領(元禄四年(一六九一)までは奈良回り八か村は奉行所付)の支配権を分離したわけであり、煩雑化する奈良町の民政、また大和幕領の支配の効率化をはかったものであろう。
その職掌は大和幕領からの年貢徴収権と、他に吉野一郡の寺社裁判権が与えられていた(「橋本家文書」)。支配高は六万石から一五万石の範囲であった。はじめ中坊時祐が代官を兼ねていた幕領を引継いだものであるが、次第に増加し、元禄十五年(一七〇二)には大和幕領一四万石余のうち半分を、また会田伊右衛門のときは二〇万石のうち一五万石余を支配するようになっている。
幕政全般のこのような状況のなかで、元文二年(一七三七)十一月二十六日代官久下藤十郎が没した。これに先だち、すでに同年六月には、支配高の一部(九千石とも一万三千石ともいう)が戒重藩(芝村藩)織田氏に預けられていたが、久下の死をきっかけに、七三年間におよぶ奈良代官所が廃止されることになり、支配高一〇万石余は周辺の各藩や代官に預けられることになったのである。安永四年(一七七五)には、建物を除く五反八畝余の代官屋敷跡が見取場として開発され、また代官所建物も同八年(一七七九)までには取り払われ、跡地は開発されて畑地になった。その後、この地は享和元年(一八〇一)の大和郡山藩領替地の際「領知足シ高」として郡山藩領に編入され、幕末にいたったのである。  (「第二節 奈良町の形成とその支配[PDFファイル/2.1MB] – 奈良市」より)]

和州奈良之圖(天保15・1844年)」(絵図中央左方向に奈良代官所が描かれています。)

カメラ北方向道路の両サイドが奈良代官所跡です。

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