宝来山古墳(垂仁天皇菅原伏見東陵)

マーカーは宝来山古墳(垂仁天皇菅原伏見東陵)です。

宝来山古墳(垂仁天皇菅原伏見東陵)
[宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「菅原伏見東陵(すがはらのふしみのひがしのみささぎ)」として第11代垂仁天皇に治定されている。
全国では第20位の規模の古墳で、4世紀後半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
概要
奈良盆地北部、奈良市街地から西方の位置に築造された巨大前方後円墳である。北東方では五社神古墳佐紀陵山古墳などの巨大前方後円墳からなる佐紀古墳群(佐紀盾列古墳群)の築造が知られるが、宝来山古墳や周辺の小円墳も佐紀古墳群南支群としてその古墳群中に含める説がある。文献によれば、古墳はかつては「蓬莱山」とも称されたことや、嘉永2年(1849年)には盗掘があったことが知られる。明治以降は宮内庁により天皇陵に治定されているため、これまでに本格的な調査はなされていない。
墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は227メートル(一説に240メートル)を測るが、これは全国で第20位の規模になる。墳丘表面では葺石埴輪の存在が知られる。墳丘周囲には鍵穴形の周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳総長は330メートルにもおよぶ。周濠の南東部は後世に拡張されているが、その際には外堤の一部が残され現在も小島として浮かぶ。主体部の埋葬施設は、江戸時代の盗掘を記す史料によると竪穴式石室であり、内部には長持形石棺が据えられたと見られる。出土品としては、宮内庁採集資料として円筒埴輪形象埴輪(盾形・家形・靫形埴輪)等がある。
この宝来山古墳は、宮内庁採集の埴輪により、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される。奈良盆地北部での巨大古墳としては、佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)に後続し、佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)・五社神古墳(伝神功皇后陵)に先行する築造順序に位置づけられる。特に宝来山古墳の場合はヤマト王権の大王墓と目されるほか、それまでの古墳と異なり、周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例になる点が注目される。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
なお宝来山古墳の古墳域は、後世に営まれた平城京では右京の京域内に位置する。
墳丘全景(左手前に前方部、右奥に後円部、右手前に湟内陪冢)・wikipedia-photo、東から望む墳丘(右が後円部)・wikipedia-photo、垂仁天皇菅原伏見東陵 拝所・wikipedia-photo  (wikipedia・宝来山古墳より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「垂仁天皇陵字宝来山」(3-9)

[『大和名所図会』の挿図では、前方後円墳に見えませんが、中央やや左上に「寶來山」(ほうらいやま)と記され、左上には引用であることを明記して「垂仁天皇陵字宝來山といふ」と書かれています。
また、本文には、「菅原伏見二基陵」として、「東は垂仁天皇の陵、西は安康天皇の陵なり。いづれも〔延喜式〕に見えたり。東は寳來山、西は兵庫山といふ。」とあり(「延喜式」=奈良平安時代の根本法典)、実際の被葬者は明らかではありませんが、明治期に宮内省(宮内庁)によって『延喜式』に「菅原伏見東陵」として記載のある垂仁天皇陵に治定されました。挿図の右奥に見えるのは、安康天皇陵で、現在の宝来IC近くにあります。周濠の南東部にぽっかりと小島が浮かぶのも、この古墳の特徴。小島の調査は行われたことがなく、この挿図にも、他の江戸時代~明治時代の図会にも描かれていないことから、随分と後世になって形成されたものだと推察できます。なお、作家・秋里籬島と絵師・竹原春朝斎が『大和名所図会』を発刊したのは寛政3年(1791年)ですが、その58年後の嘉永2年(1849年)に、垂仁天皇陵は盗掘に遭っています。垂仁天皇陵を巡るように田と田を縫う道には、人々、馬、駕籠の往来が描かれています。薬師寺唐招提寺へ参拝に向かうのでしょう。  (「『大和名所図会』今昔めぐり ⑬垂仁天皇陵」より)]

垂仁天皇 菅原伏見東陵拝礼所 – Google Map 画像リンク」、「宮内庁書陵部畝傍陵墓監区佐紀部事務所垂仁天皇陵 – Google Map 画像リンク」、「宝来山古墳(垂仁天皇菅原伏見東陵) – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が垂仁天皇菅原伏見東陵参道です。

垂仁天皇菅原伏見東陵拝所前のカメラです。