平城宮跡大膳職推定地

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平城宮跡大膳職推定地
[国宝重要文化財
名称: 平城宮跡大膳職推定地出土木簡
解説文:  本木簡は、平城宮跡の発掘で最初に出土したいわゆる「一号木簡」を含む大膳職推定地出土の木簡三九点である。その内訳は、昭和三十五年第五次平城宮跡大膳職推定地の発掘の土坑(SK二一九号)出土の三七点と、同地域内で昭和三十七年第七次発掘の井戸(SE三一一号)から出土した二点からなる。
 木簡の年代は、「甲斐国山梨郡雑役胡桃子一古」(表)、「天平宝字六年十月」(裏)と、「甲斐山梨郡雑役胡桃子一古」(表)、「天平宝字六年十月」(裏)の二点に天平宝字六年(七六二)の年紀があり、奈良時代後期と認められる一群である。
 注目されるものに、一番の番号が付けられた「一号木簡」とか「寺請木簡」と通称されているものがある。表に「寺請 小豆一斗 醤一十(斗カ)五升 大床所 酢 末醤等」、裏に「右四種物竹波命婦御所 三月六日」とあり、某寺が竹波命婦の指示によって御所の用料として小豆、醤、未醤油、酢の支給を請求したものである。「竹波命婦」は、『続日本紀神護景雲二年(七六八)六月戊寅(六日)条に、「掌膳常陸国筑波采女従五位下勲五等壬生宿禰小家主」とみえ、常陸国筑波郡出身の采女であり、孝謙天皇(称徳天皇)の食膳をつかさどっていた側近の女官であった。『続日本紀』によると、孝謙上皇は天平宝字六年五月に近江国保良宮より平城京に帰られて、宮寺とも呼ばれた法華寺を御在所とし、天平宝字八年十月に再び即位された。とするならば、木簡の某寺は法華寺となり、日付も天平宝字七年か八年のいずれかの三月六日を特定できる。また「大床所」とは、清涼殿昼御座の御膳のことで、「醤油、酢」に関する天皇の食事用のための木簡であることが判明し、『続日本紀』を補う史料として、平城宮の日常生活を詳しく伝えている。
 他に、「主殿寮 請火事」「請菜」「常食朝夕」などの日用家事に関する記事もみえる。また「阿万留止」などと書かれた万葉仮名も記されるほか、「馬」の習字など、国語学上からみても貴重な資料が散見する。
 平城宮跡で最初に出土した第一号木簡を含む本木簡は、記念碑的な性格と、律令制下で日常的に用いられた基本史料として、価値が高い。本木簡が木簡指定の最初である。  (「国指定等文化財データベース – 平城宮跡大膳職推定地出土木簡」より)]

大膳職
[大膳職(だいぜんしき/おおかしわでのつかさ)は、日本の律令制において宮内省に属する官司。朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関である。
職掌
大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、天皇の食事を掌る内膳司と饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当した。『養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑餅(雑穀などの餅製品)などを供給し、管下の組織として菓・餅類を扱う「菓餅所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。『官職秘抄』や『職原鈔』、『百寮訓要抄』などによると、後世には長官である大夫(だいぶ)は官位相当よりも高い四位から、逆に次官である亮(すけ)は官位相当よりも低い六位から選ばれる例が多くなった事が記されている。また、大同3年7月26日(808年8月21日)のによって少進・少属の定員が1名増加されている。  (wikipedia・大膳職より)]

大膳職跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が大膳職の案内碑です。