東大寺

マーカーは東大寺大仏殿前広場です。

東大寺
[東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺である。現別当(住職・220世)は、北河原公敬。金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の18世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
創建と大仏造立
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の東大寺法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
中世以降
東大寺は、近隣の興福寺と共に治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河天皇(法皇)らの列席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。その後、戦国時代永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(東大寺大仏殿の戦い)。仮堂が建てられたが慶長15年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。その後の大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648 – 1705年)の尽力や、将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平文化とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。
南大門(国宝)・wikipedia-photo、南大門(大仏様建築)・wikipedia-photo、木造金剛力士像・wikipedia-photo、中門・wikipedia-photo、金銅八角燈籠・wikipedia-photo、金堂(大仏殿)wikipedia-photo、「金堂、祭典時」・wikipedia-photo、虚空蔵菩薩(大仏殿)・wikipedia-photo、多聞天像(金堂東北隅)・wikipedia-photo、広目天像(金堂西北隅)・wikipedia-photo、如意輪観音菩薩像・wikipedia-photo、鐘楼・wikipedia-photo、二月堂・wikipedia-photo、東大寺二月堂の修二会(お松明)・wikipedia-photo、二月堂から金堂を望む・wikipedia-photo、法華堂(三月堂)・wikipedia-photo、戒壇院・wikipedia-photo  (wikipedia・東大寺より、より詳細にはそちらでご覧ください。)]

東大寺境内図

和州奈良之圖(天保15・1844年)」(絵図中央左上に東大寺が描かれています。)

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画 」・「東大寺南大門鎮守八幡宮」(1-26)

[東大寺南大門から手向山八幡宮方向の鳥瞰図です。]
二月堂若狭井大佛殿」(1-27)

[大仏殿から二月堂方向の鳥瞰図です。]
幼き良弁と母と鷲」(1-33)

[開山・良弁は一つの説によれば、近江国の百済氏の出身で野良作業の母が目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良の二月堂前の杉の木に引っかかっているのを義淵に助けられ、僧として育てられたと言われる。東大寺の前身に当たる金鐘寺に住み、後に全国を探し歩いた母と30年後、再会したとの伝承もある。しかし現在では別人ではないかとされているなど、史実であるかは定かでない。ただし、幼少より義淵に師事して法相唯識を学んだのは事実である。
「鷲にさらわる嬰児の頃。国会図書館所蔵・土佐光起『執金剛神縁起』絵巻より」・wikipedia-photo  (wikipedia・良弁より)]
良弁杉解説-1・左ページ3項目から」(1-32)、「良弁杉解説-2・左ページ3行目まで良弁松解説」(1-34)

カメラ北方向が東大寺南大門です。

東大寺中門のカメラです。

東大寺大仏殿のカメラです。

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