滝坂の道(旧柳生街道)「右瀧坂 左大杉の木髙山鶯の瀧」石碑

マーカーは「右瀧坂 左大杉の木髙山鶯の瀧」石碑です。

滝坂の道(旧柳生街道)
[柳生街道の起源は定かではないが、鎌倉時代初期には存在したとする説がある。街道のうち奈良市高畑町から山中へと入り、能登川沿いを上る石畳の坂道を「滝坂の道」または「滝坂道」と呼ぶ。滝坂の道の石畳は江戸時代奈良奉行が命じて敷かせたとも、それ以前からあったとも伝わる。道のほとりの能登川は細かな滝を作って流れ落ちる。沿道にはいくつかの磨崖仏が残る。奈良側から石切峠までの間に寝仏、滝坂地蔵と三体地蔵、夕日観音朝日観音首切地蔵がある。首切地蔵は江戸時代の剣豪荒木又右衛門が試し斬りをした伝説がある。街道は首切地蔵付近で能登川から離れ、石切峠(標高470m)までの間は上りが続き、峠までの間に春日山石窟仏(国の史跡)がある。奈良奥山ドライブウェイ東側に超え、街道より南に下った谷に地獄谷石窟仏(国の史跡)が存在する。街道は誓多林、忍辱山、大柳生、阪原を経て柳生へと至る。  (wikipedia・柳生街道より)]

[飛鳥中学校の前に反対側から二股になっている分岐点があり、振り向くと、「右瀧坂 左大杉の木髙山鶯の瀧」と刻まれた大きな石の道標があります。
「全国古街道事典」(東京堂出版)によると、「右たきさか」の道標のある所を「柳生街道の起点となる滝坂道の入口」としているので、ここも柳生街道口かもしれません。  (「奈良柳生街道滝坂の道」より)]

[飛鳥中学校の前に分岐点があり、「右瀧坂 左大杉の木髙山鶯の瀧」と刻まれた大きな石の道標が立っている。ここが滝坂道の入口かとも思う。この先左手に「新薬師寺」があったりするが、一応ここが柳生街道のゴールとしたいと思います。  (「柳生街道を歩いて見ました – 街道歩き旅」より)]

大和名所図会. 巻之1-6 / 秋里舜福 [著] ; 竹原信繁 画」・「たき坂もみぢ」(1-8)

[「たき坂」は、現在の奈良市高畑町付近から春日山原始林の南端を沿って、峠を越え、忍辱山~柳生へと通じる古道です。小さな滝がいくつもあるため、その名が付けられました。旧柳生街道の一部であり、柳生の里と奈良をつなぐ道として、江戸時代は馬の背に荷を積んだ人々や柳生の道場へ通う武芸者らが往来しました。『大和名所図会』では、滝坂は紅葉の名所として描かれています。絵の左上から、馬を引く人がこちらへ歩いてきます。その人馬と徒歩ですれ違おうとしている旅の2人がいて、そして、なんとも迷惑なことに、道の真ん中で敷物を広げ、酒宴を楽しむグループがいます。馬がそのまま進むと、蹴散らかされてしまいそうです。
絵の左上端に漢詩が書かれています。千里、すなわち見渡す限りのカエデの林がもやにかすみ、朝も暮れもなくひっきりなしに猿の鳴く声が聞こえるよ、と。今では、猿の声を聞くことは希少かもしれませんが、山道を歩くと、何かがこちらを見ているような視線、幽玄な気配が感じられます。  (「『大和名所図会』今昔めぐり ②たき坂紅葉 – 奈良ぶら」より)]

カメラ北方向に「右瀧坂 左大杉の木髙山鶯の瀧」と刻まれた大きな石の道標が立っている。