長屋王邸跡

マーカーは長屋王邸跡説明プレートです。

長屋王邸跡
[平城京左京三条二坊と聞いてピンとこられる方は、かなりの古代史通であろう。奈良時代の悲劇の宰相・長屋王の邸宅のあった場所なのだ。平城京遷都の際、長屋王は二条大路と三条大路、および東一坊大路と東二坊大路に囲まれた左京三条二坊を東西・南北に各三本通る小路によって十六に分けられた一辺130m程度の坪のうち、1・2・7・8の四坪(=町)を国から邸宅の敷地として与えられた。
現在、平城宮跡で東院庭園として復元されている史跡の南に位置し、国道24号線が平城宮跡を避けるために大きくカーブしている付近である。長屋王の一族は、あの悲劇が起きるまでは、和銅3年(710)から神亀6年(729)までの10年間この場所で居住していた。もっとも、この場所が長屋王の邸宅跡だと判明したのは、それほど古いことではない。  (「平城京左京三条二坊宮跡庭園という名の特別史跡 」より)]

カメラ北方向歩道上に長屋王邸跡説明プレートが設置されています。

長屋王
[長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? – 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、奈良時代の皇族。官位左大臣正二位皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。
天武天皇13年(684年)誕生説が有力であるが、懐風藻の記事にもとづき天武天皇5年(676年)とする説もある。父は天武天皇皇子高市皇子、母は天智天皇皇女御名部皇女元明天皇の同母姉)であり、皇親として嫡流に非常に近い存在であった。
平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。ただし、長屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。
霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が薨去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に薨去すると、その子である藤原四兄弟はまだ若く、議政官は当時参議の地位にあった藤原房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。その後長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。
当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身法がある。また養老3年(719年)には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている。
このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露になってきた。
神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。これが長屋王の変である。讒言であったとする説が強い。  (wikipedia・長屋王より)]