宇和島藩・大洲藩蔵屋敷跡(中之島フェスティバルタワー・ウエスト)

マーカーは中之島フェスティバルタワー・ウエストです。

宇和島藩蔵屋敷
[承応二年(一六五三)宇和島藩大坂中之島久保島町唐津屋勝右衛門の家屋敷を代銀四〇貫目で買収した。売券状の宛名の俵屋六右衛門は、この新藏屋敷の名代となる。
「売渡申家屋敷事
一、所ハ中之嶋久保町、表口拾五間裏行町並、東隣京屋伊右衛門、西隣塩屋新左衛門、右之家屋敷代銀四拾貫目ニ永代売渡申処実正明白也。
如何様之儀御座候共、我等罷出、無子細相済可申、仍如件
承応二巳五月十二日 売主からつや勝右衛門
俵屋六右衛門殿」

中之島屋敷(上図)をみると、土佐堀川との間など周辺部が描かれておらず、水帳もないので、公簿上の面積はわからないが、塀や建物で外部と区切られた構内だけの面積なら算出できる。
大坂の町屋敷は一間が六尺五寸なので、六尺の一間に換算すると、およそ七七二坪ある。建物の大部分は藏で、青で着色された既設の藏が四八坪、古藏二〇坪、茶で着色された建て直し新藏が八四坪、新藏が一一六坪、完成すれば藏の合計は二六八坪となる。古藏は米藏ではないようなので除き、坪当り米四〇石を収容しうるとすれば二四八坪で一時に九、九二〇石の米を貯蔵できる。
他の建物は、土佐堀川に面して表門のある敷地南端と堂島川に面して裏門のある敷地北端にかたまっており、北端のごく一部を除いて他はすべて青に着色されている。承応二年の購入時すでに存在していて、その後二年程の間に「繕普請」をしたものと推測される。蔵屋敷詰役人の宿舎である長屋が大部分を占めるが、この指図には「長屋」という書き込みはなく、南に「御門番居所」(⑦)がみえるのみである。南には「売場」 、二階建の「御銀藏」 、中央部には「廻場」があり、払業務に必須の施設を備えており、米藏が集中していることからも中之島屋敷は狭義の蔵屋敷といえる。  (「宇和島藩大坂蔵屋敷の成立 森泰博」より)]

大洲藩御用紙漉
[寛永初期ごろ五十崎郷平岡村の岡崎治郎左衛門によって始められた大洲藩御用紙漉と、元禄ごろ五十崎郷古田の宗昌禅定門によって始められた民間紙漉の二つの系統の紙漉が発展して、宝暦一二年(一七六二)には、内山地域を中心に郡内一円わたって各村落で盛んとなった。
 かねて和紙の生産と販売が、藩益をもたらすことに留意していた藩は、宝暦七年夏、紙荷を大坂の大洲藩蔵屋敷に回送するよう指令し、翌八年二月には、郡奉行から大坂向けの上り紙荷を増すよう督励するとともに、瀬戸内への紙荷積み出しを一切禁止した。この年八月には、紙漉の原料であるの出津を停止し、抜紙の禁止を布令した(「玉井家文書」)。
また同年一一月には、郡奉行通達で楮および半紙・塵紙・白保は、残らず藩買い上げとすることとして、藩による紙専売制は確立した。なお宝暦一二年一〇月抜紙取り締まりについて厳達した(「玉井家文書」)。
 しかし専売制の維持管理に当たっては、民業として建前を前面に押し出して、紙役所での紙の買い上げなどの事務は、輪番制で庄屋二名ずつに当たらせた。従来大洲紙の売捌きは、藩が郡内の生産地から買い上げた紙荷を、大洲藩の大坂蔵屋敷へ回送し、大坂の問屋商人へ売り込んでいたものを、宝暦一二年一一月から紙支配大洲領庄屋二一人と大坂指定問屋三人との間で契約取引とすることに改め、積登せ予定紙荷を引き当てに大坂問屋より代銀を為替送金させ、それを紙漉の元入銀として運用することとした。宝暦一三年三月には、新谷藩の紙も大洲方で引き受けることとなり、大坂指定問屋は一〇〇貫目にも及ぶ為替銀を送金するようになった。
 その後毎年紙取引による利益金が生じ、文化一〇年(一八一三)四月には積もって一万一、〇〇〇両の貯金となった。藩当局は藩不時の軍用金・非常用金として、家老役場で厳重に保管したが、嘉永二年(一八四九)になると、紙方益銀は総額三万九、〇〇〇両にも達している(「一村家文書))。  (「六 農村の支配 – データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報」より)]

[朝日新聞社は、1879(明治12)年1月、現在の大阪本社の所在地から約500メートル南の江戸堀で創刊した。棟割り長屋の1軒に印刷機械を置いてのスタートだった。
 中之島に本拠を据えたのは1885(明治18)年。梅田停車場が近く、船での新聞用紙の搬入に便利だったからだ。4千平方メートルの敷地がある旧宇和島藩の蔵屋敷を購入し、社屋に改装。刷り上がった新聞は長屋門から荷車で運びだした。
 社員が増えて蔵屋敷が手狭になり、1916(大正5)年10月、当時珍しかった鉄筋コンクリート造りの新社屋が完成。4階建てで高さ40メートル近くの時計塔を備え、一般向けの見学会には11月28~30日の3日間で1万6千人が訪れたという。  (「話題のモダン社屋 朝日新聞大阪本社 – 中之島フェスティバル …」より)]

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)-絵地図中央左、堂島川に架かる、渡辺バシの右下、「福岡」の上に、「秋月 ウワシマ 大洲」と記述されています。
大坂明細全図 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-明治15(1882)年)-絵地図中央上、中之島の堀川上に中島橋、下に秋月橋が描かれています。

カメラ位置は肥後橋北詰で、カメラ北西方向が中之島フェスティバルタワー・ウエストで、この敷地の西側が宇和島藩、東側が大洲藩蔵屋敷跡になります。