安徳帝内裏跡伝説地碑

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安徳帝内裏跡伝説地
[安徳宮(安徳帝内裏跡伝説地)は、神戸市須磨区一の谷公園にある。
安徳天皇(1178-1185)は、治承4年(1180)2歳で即位した。
祖父は平清盛、父は高倉天皇、母は清盛の娘 建礼門院徳子である。
源平の戦い源氏に追われた平家一門と安徳帝が西走の途中、当地に内裏を設けたと伝えられる。
その後、安徳帝は寿永4年(1185)下関壇の浦の戦いで祖母の二位尼(清盛の妻)に抱かれて入水した。
当地に安徳帝の冥福を祈るために祀られたのが安徳宮(宗清稲荷社)である。
安徳宮前に、もと京都の舞妓で、アメリカの財閥モルガン家の御曹司と国際結婚したモルガンユキ(加藤ユキ)が明治44年に献納した「モルガン灯籠」がある。
また、安徳宮横には、幕末の政略結婚で徳川家茂に嫁いだ皇女和宮像がある。
山陽電車須磨浦公園駅下車、徒歩20分。
  (「ぐるりん関西 – 安徳宮(安徳帝内裏跡伝説地)」より)]

逆落し
[精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った源義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。
平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は源範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。
崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。
鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分る。これが逆落しを意味すると解釈されている。
九条兼実の日記『玉葉』では搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした。と戦況を書き残している。ここでは義経が一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。
なお本項目の経過解説と画像では、逆落しの場所を現在この合戦の説明の際に主流になっている一ノ谷の裏手鉄拐山とする説(一ノ谷説)を採っているが、『平家物語』や上記『吾妻鏡』では義経の戦った場所は鵯越(一ノ谷から東方8キロ)となっており鵯越説も根強く、またそもそも逆落し自体が『平家物語』が創作した虚構であるという見方も有力である。  (wikipedia・一ノ谷の戦いより)]

合戦図(藍那~一の谷)(「源平合戦と須磨」より)]

摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「11巻15・一ノ谷内裏址

[図会左ページ「一の谷」と記述描かれ、その左上に「内裏址」と記述、左上に「てつそろい嶺(鉄拐嶺)」と記述されています。右ページ中央右に村上天王陵(村上帝社Google Map)と記述されています。]

11巻23・す磨内裏一ノ谷阪落し

[内裏では平常の状態が描かれ、左上に奇襲をかける義経軍の逆落しが描かれています。]

カメラ北方向に安徳帝内裏跡伝説地碑があります。