小山団扇

マーカーは藤井寺市役所です。

小山団扇
[小山団扇の由来は、戦国時代武田家軍師・山本勘助三好氏の動きを探るため小山に潜伏した際、団扇づくりを生業としたことから始まります。一子相伝の秘法として代々継承され、徳川将軍家天皇へ献上されるまでになりましたが、昭和45年に後継者が亡くなり、その名声も途絶えました。小山団扇は藤井寺市役所1階ロビーにて展示中。  (「地元産品 – ふじいでら観光WEB | 藤井寺市観光協会公式サイト」より)]

[戦国時代、永禄の頃、武田家の謀臣山本勘助は三好氏の動向を探るべく、河内の国にやって来た。折柄、三好の一族が小山(津堂城山) の砦に籠り畠山と争い始めたのである。二重の濠と堤をめぐらし、総長四三六メートルにも及んだ巨大古墳は、戦国の世には格好の砦となり、出城が築かれていたのだ。この動き、暫く様子をみる必要があると、勘助は小山の地に住まいをする。そして姓名を浅野文吾となのり、かくれみのの生業として団扇を作り商ったという。
河内名所図絵には団扇を商う横で、虚無僧が尺八を吹きながら内部を覗いているという、意味ありげな挿絵が描かれている。一種奇特の手練によって作られたこの団扇、骨が強く、その面は清く、柄を座上に立てても倒れないという、優れものであった。しかし団扇を造り続けるのは彼の主意ではなく、二年後には村人に製法を伝え、飄然と河内の地を去った。その後、村人は浅野文吾の名を受け継ぎ、一子相伝の秘法とし、小山団扇としてその名を高く世に広めたのである。  (「勘助うちわ」より)]

河内名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [著] ; 丹羽桃渓 画 – 早稲田大学」 – 「名造小山團(4巻17)

日本山海名物図会」(巻の四 – 15ページ・河内小山団扇)

カメラ位置は長尾街道・藤井寺市役所前です。