岡山藩池田家京屋敷跡(中立売通/猪熊通)

マーカーは岡山藩池田家京屋敷跡です。

岡山藩池田家京屋敷跡
[朝廷や公家との連絡調整などを行うために、各大名家は京都屋敷を構えた。岡山藩池田家では、元禄 14 年(1701)には猪熊通中立売上ル町に新屋敷を建設しているが、いつからかは定かではないが、以前からこの地に京屋敷を構えていたと思われ、その後も幕末までここに京屋敷が置かれた。二条城禁裏との中間にあたり、公武の折衝に便利な地であった。近くに一条家の別宅(買得屋敷)もあった。
 京屋敷には京都留守居が常駐し、所司代や朝廷・公家との折衝をはじめ、京銀(豪商からの借入)の調達や呉服など高級調度品の購入などの諸用を勤めた。「諸職交代」によれば、京都留守居の初任者は延宝 4 年(1676)の若林弥三郎で、前職は呉服奉行であった。京都の事情に詳しい者と思われる。また、情報交換のために有力藩の留守居たちは組合を結び、活動していた。ただし、留守居自身が朝廷・公家や武家への正式の使者となることはなく、国元から送られる使者の京都での世話や案内をするのが職務であった。京都留守居になったものは、平士格の下級家臣で、後期になると伏見在番から転じるのが慣例のようになっている。
 岡山江戸との往復や連絡は、伏見を中継して行われるのが一般的であった。そのため岡山藩では伏見にも藩屋敷を置き、伏見在番を常駐させた。国元や江戸から京都への連絡も、伏見を経由して行われた。ただし、伏見は京都に比べて屋敷も小規模で、在番の格もやや低かった。前期には大坂定目付から転じるケースが目立つ。
京都新御屋鋪惣絵図(「池田家文庫絵図一覧 | 岡山県立図書館 | デジタル岡山大百科」 – 「屋敷図171/資料番号T5-53・京都御屋敷絵図

猪熊通中立売上ル町に新築された岡山藩京都屋敷の指図。「惣坪数五百五拾壱坪余」。欄外に「元禄十四辛巳歳五月朔日御釿初、同年十一月迄ニ右御作事惣出来」と記されている。  (「京都と岡山藩 池田家文庫絵図展池田家文庫絵図展」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 文久改正新増細見京絵図大全(文久3 [1863])」(絵図中央上方向・堀川左、一条モトリ橋記述の左下にビゼン岡山と記述されています。)

西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース – 京町御絵図細見大成(明治元年・1868年)」(絵図中央上方向・堀川左、中立売通/猪熊通左上に備前ヤシキと記述されています。)

カメラ位置は中立売通/猪熊通交差点で、カメラ北西方向一画が岡山藩池田家京屋敷跡になります。