岡山藩蔵屋敷跡

マーカーは中之島フェスティバルタワーです。

岡山藩蔵屋敷
[デジタル岡山大百科・郷土情報ネットワークで「大阪蔵屋敷」で検索すると、目次情報データベースから、資料①『岡山市史 全』に「大坂蔵屋敷の位置」の小項目があることがわかる。本文を確認すると、「大坂の蔵屋敷は、築島町(現今中之島二丁目大坂中央郵便局(中之島フェスティバルタワー)の一部)と綿屋町(現今の堀川監獄前※岡山藩堀川陣屋跡)の二箇所にあり」とある。  (「大阪にあった岡山藩蔵屋敷の場所」より)]

[岡山藩蔵屋敷の御殿は、北東部に南面して「御広間」(10畳、床付き)、「御書院」(8畳、床付き)と「御座之間」(4.5畳)の3室を接客空間と見なす事ができる。御殿における居住空間は御殿北部の接客空間に北接して「物置」(4畳)、「御納戸」、「御寝間」(6畳)等で構成されるが、寝間が御座之間に隣接し、接客空間と居住空間の分離が明確でない。役所空間は玄関に面して「下用場」(7畳)、「用場」(16畳、床付き)が設けられ、これが居住・接客空間と台所空間を分離させている。台所空間では、「下用場」の南側に「御台所土間」が設けられ、西には留守居住居の台所があり、台所空間が1ヶ所にまとめられている。
岡山藩御殿図

    (「大坂蔵屋敷の住居史的研究 – 住総研」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図をスクロールし、中之島下、堂島川に右から二番目の橋が渡邊橋で、その右下付近が、岡山藩蔵屋敷になります。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図中央左、堂島川に架かる渡邊バシの右上、一区画目上に「岡山」と記述されています。

カメラ南方向が岡山藩蔵屋敷跡に建つ中之島フェスティバルタワーになります。