マーカーは大悲山峰定寺です。
大悲山峰定寺
[峰定寺(ぶじょうじ)は、京都市左京区花背原地町にある本山修験宗の寺院。山号は大悲山。本尊は千手観音。開基は観空西念である。12世紀に開創された修験道系の山岳寺院で、創建時にさかのぼる仏像など、多くの文化財を伝える。
藤原通憲(信西)が記した『大悲山峰定寺縁起』によれば、この寺は平安時代末の久寿元年(1154年)、鳥羽上皇の勅願により観空西念(三滝上人)が創建したもので、鳥羽上皇の念持仏の十一面千手観音像を本尊として安置し、本堂や仁王門の造営には信西と平清盛が当たったという。観空西念は大峯山、熊野などで修行を積んだ修験者であった。大悲山中には「鐘掛岩」「蟻の戸渡り」などと称する行場が点在し、古くから修験者の修行の場であったとされる。修験の行場として著名な大和の大峯山(奈良県吉野郡天川村)に対し、大悲山は「北大峯」とも呼ばれた。
峰定寺に伝わる本尊千手観音坐像と脇侍の不動明王二童子像・毘沙門天像は、小像ながら都風の入念な作で、伝承どおり、峰定寺創建時の作と見なされている。
寺には長寛元年(1163年)の胎内銘をもつ金剛力士像、像内納入品から正治元年(1199年)の作であることがわかる釈迦如来像が伝わる。現存する仁王門は貞和6年(1350年)の再建、本堂も同じ頃の再建と思われ、この頃までは寺勢盛んであったことが伺われるが、以後次第に衰微する。
近世には峰定寺は荒廃していたようだが、延宝4年(1676年)、時の後西上皇の勅により、上皇の皇子である聖護院宮道祐親王が貴船成就院の元快に命じて、伽藍を再興したという。以後、峰定寺は聖護院末の本山修験宗の寺院となった。なお、再興時期については享保年間(1716 – 1736年)とする資料もある。
仁王門・wikipedia-photo
峰定寺・wikipedia-photo
(wikipedia・峰定寺より)]
「拾遺都名所図会」・「巻之三 後玄武・右白虎 大悲山」、「巻之三 後玄武・右白虎 大悲山乳岩 (乳岩)」、「巻之三 後玄武・右白虎 乳岩解説」
大悲山(拡大図)
[大悲山(だいひさん)
しらぬ比丘雪のいづこのア字にすむ 葵房少納言]
大悲山乳岩 (乳岩)(拡大図)
[大悲山乳岩(だいひさんちいは)
乳々とふところ捜すさざれ石その乳母の名はお岩どの也 斑竹]
「大悲山 峰定寺 本堂 – Google Map 画像リンク」
大悲山峰定寺参道口のカメラです。