島原藩蔵屋敷跡(駅逓司大阪郵便役所跡・日本銀行大阪支店旧館)

マーカーは日本銀行大阪支店旧館です。

島原藩蔵屋敷
[島原藩蔵屋敷は、「島原藩の大坂蔵屋敷(その一)」によると、貞享4年 (1687)には「大坂天満屋敷」として、樋上町、天満11丁目浜側、天満樋上町難波橋東角の3箇所に存在し、前二者が川端に面していた。 しかし、延享4年(1747)には天満樋上町の屋敷のみとなり、宝暦6年(1756)には上中之島町に移転して文化11年(1814)まで継続するが、天保6年(1835)には、淀屋橋北話にその位置が確認される。
淀屋橋北話に所在した屋敷は、現在の日本銀行大阪支店の場所に相当する。敷地の周閑には「表御門」、「南北水門二ヶ所」が設けられ、敷地内には、「御蔵拾六戸前」、客座敷と勝手を備えた 「聞継小屋」や「役人小屋」、「留主居小屋」、「横目部屋」、「廻し場水路」、「矢場水路」等が配されている。 さらに 「御元冠」 ・ 「御使者之間」 ・ 「表座敷」 ・ 「台所」等で構成される「御殿」も確認される。
島原藩蔵屋敷は、具体的な規模や配置、間取り等が不明であるものの、16棟の米蔵、廻し場水路等の業務施設、役人小屋、留主居小屋、横目部屋、藩主のための御殿等から、佐賀藩蔵屋敷に代表される西国大名の蔵屋敷と同様の施設が設けられていたことが判明した。  (「-55- 大坂蔵屋敷の年中行事と蔵屋敷祭礼について – 大阪市立大学」より)]

駅逓司(えきていし)大阪郵便役所跡
[わが国最初の郵便制度が設けられたのは、明治4年(1871)3月のことである。まず大阪-京都・東京間の開設があり、ここにその郵便役所がおかれた(元島原藩蔵屋敷)。さしずめ今日の中央郵便局にあたるものであった。ポストも設置されたが、最初の3日間で53通が投かんされ、東京までの所要時間は約75時間であった。  (「20.駅逓司(えきていし)大阪郵便役所跡 – 生涯学習」より)]

日本銀行大阪支店旧館
[日本銀行大阪支店の顔ともいえるのが、南北に延びる御堂筋に面し、ドーム型の屋根を持つ旧館です。
旧館は、明治36(1903)年に建設されました。日本銀行大阪支店は、堂島川土佐堀川に挟まれた中之島に位置しています。この場所には、江戸時代島原藩水戸藩の蔵屋敷が軒を並べ、明治の初めには、現在の郵便局に当たる「駅逓司(えきていし)大阪郵便役所」が大阪で最初に設けられました。また、同役所が移転した後は「内務省大阪衛生試験所」(官営の医薬品試験機関)が設置され、移転するまでの間、現在の新館敷地内の一部に、大阪経済の基礎を築いた実業家の五代友厚が一時、私邸を構えたこともありました。
設計は、「日本近代建築の父」と言われる辰野金吾によるものです。辰野は、重要文化財に指定されている日本銀行本店東京駅丸の内駅舎などを設計したことでも知られています。  (「日本銀行大阪支店ホームページ – 旧館外観」より)]

大阪の地図(1686年)(拡大図)

絵地図を右にスクロールすると、堂島川に架かる、右端の大江橋下に「松平主殿(松平忠房)」と記述されています。
※wikipediaでは大阪の地図は1686年作成となっていますが、絵地図を見ると本町橋東詰に西町奉行所が描かれ、大阪城代・阿部正福(伊勢守・1745年 – 1747年)、京橋口定番・植村恒朝(土佐守・1742年 – 1747年)、玉造口定番・森川俊令(兵部少輔・1745年 – 1749年)の名が見えますので、1745年 – 1747年頃の作成になると思います。マイドームおおさか 敷地の変遷(詳細)では、宝暦8年(1758年)としています。

大阪繪圖 – 国際日本文化研究センター(日文研)」(成立年代-文久3(1863)年)絵図左、堂島川に架かる大江橋の右下に「島原」と記述されています。

カメラ西方向が日本銀行大阪支店旧館で、敷地南東角に駅逓司大阪郵便役所跡碑があります。

カメラ西方向に駅逓司大阪郵便役所跡碑があります。