マーカーは平重衡とらわれの遺跡碑です。
平重衡
[平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。
平氏政権の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。治承・寿永の乱(源平合戦)においては墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり、鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。
一ノ谷の戦いで平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは『平家物語』では梶原景季と庄高家、『吾妻鏡』では梶原景時と庄家長とされる。重衡は京へ護送され、土肥実平が囚禁にあたった。後白河法皇は藤原定長を遣わして重衡の説得にあたるとともに、讃岐国・屋島に本営を置く平氏の総帥・平宗盛に三種の神器と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。 しかし『玉葉』の2月10日条によると、この交換は重衡の発案によるものであり、使者は重衡の郎党だった。
同年3月、重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった。
元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女達は入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっている。
同年6月9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、源頼兼の護送のもとで鎌倉を出立。22日に東大寺の使者に引き渡された。『平家物語』には、一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡し、「来世で同じ蓮の上に」と祈ってほしいと伝えるという哀話が残されている。『愚管抄』にも日野で重衡と輔子が再会したという記述がある。
23日、重衡は木津川畔にて斬首され、奈良坂にある般若寺門前で梟首された。享年29。なお、斬首前に法然と面会し、受戒している。
妻の輔子はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆(だいしゅ)から首も貰い受けて荼毘に付し、日野に墓を建てた。現在、この墓は京都市伏見区の団地の中に残っている。また輔子は高野山にも遺骨を葬らせ、その後、大原に隠棲した建礼門院に仕えた。夫婦の間に子は無かった。 (wikipedia・平重衡より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「11巻36・中将重衡須磨浦戦捕われ.JPG」
[挿絵の全体。挿絵には次の文章が書かれる。
中将重衛卿須磨の浦にて源氏の武士にとらわれたまう。三位中将重衛は生田の合戦敗れて西をさして落ちたまう。跡より庄四郎、梶原源太景季など追いかけ遂に生捕けり。これを見捨てて後藤兵衛盛長は逸足(いちあし)して逃げに逃げける。主君の先途を見捨てて我が命を全うするは、剣を抜いてその君を弑(しい)するにも比せんや。
とあり、捕らわれる重衛と主君の危機を無視して逃げる後藤兵衛盛長が描かれている。 (「神戸・昼から散歩 摂津名所図会・挿絵の旅、中将重衛」より)]
「平重衡とらわれの遺跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ西方向に平重衡とらわれの遺跡碑があります。