マーカーは平野湯跡です。
平野湯跡
[平野湯跡
川西市平野には、江戸時代有馬・一庫とともに「摂津三湯」として栄えた「平野湯」があり、大阪市中まで広く知られていました。
平安時代の初め頃から、塩泉が湧き出ていたことは知られていましたが、温泉場となったのは元禄年間(1688~1704)からです。その頃の様子は『摂津名所図会』に描かれており、塩川の横から源泉を汲み上げ、浴室まで流して沸かしていたことが知られます。また、二十数軒の旅舎も建ち並び、なかなかの賑わいだったようです。
しかし、江戸時代の大火で衰退し、現在は薬師堂の名残りを伝える薬師庵だけが残されています。 (「摂津三湯のひとつ「平野湯」 – “四季折々 この一枚″」画像より)]
[江戸時代後期に刊行された「摂津名所図会」(中央図書館調査相談室で閲覧可)。同書は摂津国(おおむね大阪府北中部や兵庫県南東部)の名所を絵画と文章で紹介した郷土誌です。
この図会には、江戸時代、摂津国にあった湯として「有馬温泉」とともに「一庫湯」と「平野湯」の様子が描かれています。
「平野湯」は能勢電鉄「平野」駅周辺にあった温泉場のことです。図会によると平野湯の源泉は『全く冷泉でもなく全く温泉でもない。その中間で滔々(とうとう)と湧出している。味は鹹(しおはゆ)く渋みを帯びている』と記されています。当時は源泉をつるべでくみ上げ、ゆといで浴室に運び、そこでまきをたいて温湯にしていたようです。
また、同書には平野湯の旅舎の様子を詳しく描いた絵も載っています。将棋を指す人、茶の湯を楽しむ人、蹴鞠(けまり)に興じる人などが描かれています。表の人通りも多く、活気に満ちた様子がうかがえます。
現在は商業店舗が立ち並び、温泉場があった様子は全くありません。ただ、当時をしのぶものとして、湯之町の地名と「多田平野湯之町温泉薬師庵」と彫られた石碑が残っています。 (「住宅都市の川西市 実は温泉郷だった !?」より)]
[多田の地は、現在能勢方面~篠山に通じる国道173号線と妙見口あるいは日生中央へ通じる能勢電鉄が平行して走っている。多田駅の次はすぐに平野駅で、ここから北の一の鳥居駅との間は谷口が狭まり、能勢方面への入口となっている。
道路と線路に挟まれ、山下方面から流れ下る細い谷川が流れる。この谷川の名は塩川と呼び、東側には広くフェンスで囲まれた三ツ矢サイダーの工場跡地があるが、奥の谷口にある小高い所には、サイダーの製造に欠かせない炭酸ガスを含んだ源泉を汲みあげる三ツ矢塔が移設復元され、狭い丘上には明治30年に三ツ矢平野水と呼ばれた宮内庁御料品製造の建物跡(三ツ矢記念館)が残されていて、その奥に探していた住吉神社の小祠が祀られているのを確認できた。
アサヒビール(株)の説明板には、
この神社は「平安朝のころ清和源氏の祖源満仲によって創建されたと伝えられています。源満仲が、当地平野で湧き出る鉱泉水を発見して薬用に利用したところ、たいへん効能があったことに感謝して、日ごろ信仰している
摂津一の宮の住吉大社から住吉大明神を勧請したのが、この神社のはじまりであると言われています」とあった。
現在も神社下の塩川河岸や工場跡地から鉱泉が湧出して硫黄の様な臭いが漂っている。
ところで平野の住吉神社と鉱泉であるが、『摂津名所図絵』に「多田荘平野湯」として景観図が描かれ詳しい説明が載せられている。
「平野湯本町の中間にあり、浴室の廣さ方五丈許、中を隔て男女を分つ、後に釜あり 是より薪を焚て温湯とす・・町の北に薬師堂あり、其岸の本より水勢沸々として霊泉湧出す、其色鶏卵を解たるが如し、上に釣瓶を設てこれを汲上げ、かけひより浴屋へ流れ通ふ、これを湯にして諸人浴す・・入湯の旅舎両側に建ならびて壹町余あり、家数二十四戸、何れも素簾に座鋪を設て諸方の客を宿す・・・
それ平野湯は・・・・多田荘の山中に金山ありて金取坑所々にありその脈ここに通じて水精露れり、全き冷泉にもあらず完き温泉にもあらず其中間にして湧出する事滔々とたり、味は醎く渋味を帯たり これを焚火して湯とし入浴す・・里諺日ふ、もとこの金泉は始め源満仲公神明の告によって感得し給へるより湧出、次中頃洪水に山崩れて滅び、また現れあるいは隠れし事数度に逮ふ・・」とある。
今は往時の面影を全く失っているが、絵図を見るかぎり名所湯の町として大いに繁栄していたことが想像できる。
絵図には薬師堂と塩川岸の湯口、対岸の住吉神祠も記録されている。丘上に「住吉」と書いて本殿建物を、石段の途中に「古社」と記す謎めいた神祠を描いている。 (「多田と住吉の世界 – いこまかんなびの杜」より)]
「摂津名所図会. [前,後編] / 秋里籬嶌 著述 ; 竹原春朝斎 図画」-「7巻40・多田荘平聖湯」
[図会左ページに薬師堂が描かれ、右ページに住吉神社が描かれ、その間に平野湯の源泉が描かれています。]
「7巻41・多田の湯浴室」
[上図会との接続図で薬師堂南側の旅舎を描いています。]
カメラ位置は平野橋で、カメラ北方向上流に平野湯があったようです。